秩父鉄道は羽生~熊谷~三峰口、71.7km、1,067mmゲージ、架線電圧DC1500Vの古い歴史を有する電気鉄道で、石灰石輸送の貨物輸送も多く、北関東では最も、存在感のある私鉄と思います。往時は自社発注の電車が占めていましたが、最近では、営業状況も厳しいようで、他社から譲受したものばかりになって仕舞いました。
1976年(昭和51年)6月、鉄道ファンの友人と撮りに出かけました。
クハニ20形(先頭)+デハ100形 上長瀞 1976-6-13
クハニ20形+デハ100形+クハ60形+デハ100形 武州原谷 ~和銅黒谷 1976-6-13
荒川橋梁を渡る100形電車 上長瀞~親鼻 1976-6-13
デハ100形、クハ60形、クモニ20形は戦前からの木造車の鋼体化改造したもので、1950年(昭和25年)から5年間に日本車両東京支店で総勢31両製造されたものです。このスタイルの電車は戦後の日車私鉄標準型と言われ、代表的なものとしては長野電鉄1000、1500形がよくあげられますが、富山地鉄にもおりました。地方有力私鉄が戦後の車両不足を補うため、こぞって採用したもののようです。昭和初期の電車が多かったこれらの私鉄では、洗練されたスマートな電車という感じでした。1988年までに全車廃車になりました。
300系、急行「秩父路」 大野原 1970-9
300系は1959年(昭和34年)に日本車両で製造された、当時の先端を行くWN駆動全電動車、MM’編成の高性能電車でした。三菱電機が開発した狭軌用WN駆動を富士山麓電鉄(現富士急行)3100形、長野電鉄2000系に次ぎ、採用した電車でした。MM’全電動車2両編成で、スタイルも富士山麓電鉄3100形そっくりでありましたが、3100形は電動機出力が55kWであるのに対し、電動機出力は長野電鉄2000系と同じ75kWでした。長野電鉄2000形はMTM’でしたので、300系も中間付随車サハ350形をいれて3両編成になりました。300系は2編成あり、サハ350形も2両作られました。サハ352はアルミ車体でした。写真の編成のサハはアルミ車体のように見受けられます。クロスシートを備えており、急行「秩父路」号として活躍致しましたが、1992年に老朽化と非冷房車のため、JRから165系を譲り受けた3000形に後を譲り、引退しました。
デハ500形、デハ502 熊谷 1976-6-13
クハ600形、クハ607 熊谷 1976-6-13
荒川橋梁を渡る500系電車 親鼻 ~上長瀞 1976-6-13
デハ500形+クハ600形のMT編成の500系電車は1962年(昭和37年)から6年に渡り、9本18両が日本車両で作られました。カルダンドライブやWN駆動の所謂、高性能電車は、初期にはMM’編成の全電動車方式で、電気制動を常用し、加減速度を増し、俊敏な走りを目指したようですが、電動機の温度上昇や、コストの問題などから、よりシンプルなMT編成に戻る傾向にありました。500系はその時期の電車で、MT編成WN駆動で、電動機容量は110kWに増強されました。普通電車用で座席もロングシートになりました。300系と同じ、顔つきの前面2枚窓でした。東急7000系の2000系電車と置き換え、1992年までに全車廃車になりました。
300系、500系とも全車解体され、保存車が皆無であるのは、寂しいことと思います。
荒川橋梁を渡る東武8000系電車 親鼻 ~上長瀞 1976-6-13
東武東上線電車の乗り入れはかなり歴史があるようですが、当時は8000形電車が乗り入れておりました。
デキ1形、デキ2 三峰口 1970-9
石灰石などの輸送が多い秩父鉄道は、1922年(大正11年)の電化時にアメリカのウエスチングハウスより、デキ1形、5両を輸入しました。軸配置BーB、出力375kWの凸形電気機関車ですが、当時は初めての大型幹線用として認識されていたようです。訪れたときは本線貨物列車を牽引する姿は見ることは出来ませんでしたが、まだ、現役であったようです。このデキ2は1994年に最後に廃車になりました。
ED38形、ED38 2 寄居 1970-9-27
国鉄阪和線時代のED38形、ED38 2 鳳電車区 1958-1-12
荒川橋梁を渡るED38牽引貨物列車 親鼻 ~上長瀞 1976-6-13
ED38形電気機関車は、1930年(昭和5年)に阪和電気鉄道、ロコ1000形として、製作されたもので、先台車が無い流麗な箱型で、B-B軸配置、最高営業速度100km/hの戦前の私鉄電機の最高傑作と言われているものでした。戦時買収で、国鉄阪和線になり、ED38の型式を与えられ、引き続き、阪和線の貨物列車の牽引に当たっていましたが、1960年にED60形に置き換えられ、除籍され、1,3号機は、秩父鉄道に参りました。2号機は大井川鉄道に譲渡されましたが、1967年に秩父鉄道に再譲渡されました。1~3号機が揃い、デキ100形とともに、貨物列車の本務機として活躍しました。1974年頃ED38 2が休車になり、1988年までにすべて廃車になりました。1号機は三峰口に静態保存されています。訪れた1976年はこの名機の活躍を見ることが出来る最後に近かったと思われます。
デキ100牽引貨物列車 武州原谷 ~和銅黒谷 1976-6-13
デキ100形は戦後、日立が私鉄や専用線に供給した50t電気機関車のひとつです。デキ101は1951年(昭和26年)に秩父セメントが購入したもので、デキ102は1954年、デキ103~デキ106は1956年に秩父鉄道が増備したもので、デキ101に比べ、質量48t→50t、出力640kW→800kWに増強されています。デキ107、デキ108は元松尾鉱業鉄道ED501,ED502で、廃線になった1972年に秩父鉄道に来ました。性能はデキ102~6とほぼ同じですが、全面窓にひさしがついております。最近、除籍、廃車される車が多くなっています。
デキ200、デキ201牽引貨物列車 上長瀞 1976-6-13
デキ200牽引貨物列車 武州原谷 ~和銅黒谷 1976-6-13
デキ200に牽引された石灰石輸送貨物列車が往きます。東京オリンピックの前年、1963年(昭和38年)、セメント需要が急増しましたので、デキ200形3両を日立で作りました。車体はデキ100とはヘッドライトが2灯化したのと、全体に丸みを帯びたぐらいしか、変わりませんでしたが、出力は920kWに増強されました。デキ200形は引き出し時の空転防止をするため、軸重移動を防ぐ特殊な台車を履いていたが、ばね下重量が大きく、メンテにも問題があったので、1967年(昭和42年)に3両製作したデキ300形では通常の台車の戻しました。このため、デキ202、デキ203は2000年に三岐鉄道に譲渡され、デキ201はパレオエキスプレスの補機になりました。
デキ500形、デキ501牽引貨物列車 上長瀞 1976-6-13
デキ500形デキ501、デキ502は1973年(昭和48年)に日立で製作された電機で、1976年に訪れた時では最新鋭機でありました。先に作ったデキ300形とほぼ同じですが、ヘッドライトがシールドビームになり、塗色は現在のブルーに白帯になったので、新車らしく見えました。
1976年、40年前の秩父鉄道は、すべて自社発注の電車で運行されており、他社からの譲受車ですべて運行している現在から見ると、個性があり、魅力的でした。名電機ED38の活躍も目の当たりにすることが出来ました。
このときの秩父鉄道をご覧頂きたく思います。
参考ウェッブサイト
ウィキペデイア、フリー百科辞典 「秩父鉄道」
謝辞
友人MOさん、TSさんから、撮影場所、時期などのアドバイスを頂きました。深謝致します。
(2016-6-22)