廃止になると聞くと、駆けつけるのが、いにしえからの鉄道ファンの習性のようですが、昭和39年2月に友人と遠州鉄道奥山線を訪れたのは、正に、それでした。奥山線は浜松から三方が原台地を走り、かっての国鉄二俣線 の金指を経て、奥山半僧坊という有名なお寺のある奥山までの25.7kmの762mmゲージの軽便鉄道でした。途中の曳馬野までは、直流750Vで電化されていましたが、バスにおされ、乗客の減少で、気賀口〜奥山間7.7kmは前年、昭和38年5月に廃止され、残る18.0kmもこの年、昭和39年11月に廃止になることになっていました。
当時の遠州鉄道は新浜松〜遠鉄浜松〜西鹿島間の西鹿島線と称していた1067mmの電鉄線と遠鉄浜松〜気賀口間の奥山線がありました。
昭和39年2月23日(日)に国鉄浜松駅と少し離れた遠鉄浜松から終点、気賀口まで乗り通し、三方が原台地の端の都田口まで戻り、ここから、変化のある風景が広がる谷まで、歩き、撮ったようです。そして、谷から遠鉄浜松に戻りました。駆け足ではありましたが、その時の廃止間もない奥山線の姿をすこし、ご覧頂きましょう。
遠鉄浜松
出発を待つ下り列車 遠鉄浜松 昭和39年2月23日
遠鉄浜松駅にはモハ102が木造ボギー車のサハ(付随車)を2両従えた電車が待っておりました。
上池川
上り列車(先頭モハ1003)到着 上池川 昭和39年2月23日
遠鉄浜松から6駅目の上池川で、モハ1003+サハ+キハ(気動車)の3両編成の上り列車と交換しました。キハは力行していたのでしょうか?
曳馬野
曳馬野駅進入 昭和39年2月23日 曳馬野駅構内 昭和39年2月23日
乗った下り列車、モハ1002+サハ?+サハ1101は曳馬野駅に進入します。島式ホームの左側に遠鉄浜松からの電車は到着しました。
乗り継ぎの気動車 曳馬野駅 昭和39年2月23日
向いの右側のホームにはキハ1804が気賀口行として待っていました。隣の線にはキハ1801がいました。
折り返しの電車モハ1002 曳馬野駅 昭和39年2月23日
到着したモハ1002は左の機廻り線を通り、浜松側の先頭になり、モハ1002+サハ1101+サハ?の編成になりました。
電車の総勢はモハ1001〜4の4両でした。 モハ1001,2は昭和25年、富士産業製の新車、モハ1103〜4はガソリンカーの改造名義のようですが、実際には新製したようで、ほぼ同じスタイルでした。戦後の私鉄標準形の特徴も見えますが、一段下降窓など、側面はすこし、古い感じが致しました。
キハ1804 曳馬野駅 昭和39年2月23日
気動車キハ1801〜2は電車とそっくりな姿で、昭和25年にナニワ工機で新製されたものです。
キハ1804は昭和33年、日本車両製の全面2枚窓、バス窓の岡山県の井笠鉄道ホジ1〜3とほぼ同じもののようです。側面窓が1枚少ないのでやや小型であったのかもしれません。
キハ1803は昭和29年製、全面3枚窓の軽快な車でしたが、訪問時、既に石川県の尾小屋鉄道に譲渡されてしまったようで、姿を見ることが出来ませんでした。
遠鉄浜松行モハ1002 曳馬野駅 昭和39年2月23日
帰りの曳馬野駅にはモハ1002がサハ1101のみを従え、待っていました。車内には乗客の姿も多く見られ、まだ、それなりの利用があったようにも見受けられました。
都田口
遠鉄浜松行 キハ1804 都田口駅 昭和39年2月23日
都田口駅は三方が原台地の端にある鄙びた駅でした。
遠鉄浜松行 キハ1804 都田口駅 昭和39年2月23日
ここから、浜松に向けて、台地の上を走ります。
都田口〜谷
都田口からは台地の端を下るため、山の中を走ります。掘割、築堤と変化に富んでいました。都田口駅から谷駅に歩き、すこし、撮りました。
気賀口行 キハ1801 都田口ー谷 昭和39年2月23日
気賀口行 キハ1801 都田口ー谷 昭和39年2月23日
遠鉄浜松行 キハ1801 都田口ー谷 昭和39年2月23日
気賀口行 キハ1804 都田口ー谷 昭和39年2月23日
気賀口行 キハ1804 谷 昭和39年2月23日
谷はホーム1面の山間の無人停留所でした。
キハ1804の車内 昭和39年2月23日
キハ1804にもほぼ座席定員の8割くらいは乗っておりました。
気賀口
訪問時の終点、気賀口駅です。
気賀口駅で発車を待つ遠鉄浜松行 キハ1804 昭和39年2月23日
気賀口駅 昭和39年2月23日
気賀口駅構内 昭和39年2月23日
大きな木造駅舎、駅舎の前のホーム以外に島式ホームがある広い構内があります。そばにある鉄筋コンクリートの近代的な建物は遠州鉄道の従業員宿舎とのことでした。
サハ1103 気賀口駅 昭和39年2月23日 サハ1109 気賀口駅 昭和39年2月23日
ラッシュ時の増結用でしょうか?木造のサハが2両留置されていました。
終焉間近い奥山線のシーンでした。乗客はそれなりにあったように見えましたが、1時間ヘッドの運転でしたので、収益は厳しかったのでしょう。
で1954年(昭和29年)と1958年(昭和33年)の奥山線が詳しくご覧になれます。
参考ウェッブサイト&図書
謝辞
作成にあたり、「むーさん」に全面的にご協力頂きました。謝意を表したいと思います。
(2009-5-28)
(2016-9-28)タイトル更新
軽便鉄道シリーズ
狭軌の国鉄より更に1フィート狭い2フィート6インチ(762mm)ゲージの軽便鉄道が全国各地にありました。ほとんどがバスとの競争に敗れ、昭和30年代から40年代はじめに姿を消しました。本ページ以外に下記の軽便鉄道の最後の姿をご覧頂けます。(下のアイコンをクリックして頂くとご覧頂けます。)
(610mmゲージ)