1961年(昭和36年)10月1日に全国の主要幹線に気動車特急が走ることになりました。国鉄の特急列車は 東海道、山陽、鹿児島本線でしか、お目に掛かることが出来ませんでした。1958年(昭和33年)10月に常磐線経由で上野ー青森間に特急「はつかり」が東京以北で初めて運転され 、1960年(昭和35年)12月に気動車化されました。これに続き、「はつかり」に使用されたキハ81を改良したキハ82を使った気動車特急が全国各地にお目見えしました。なかでも、裏縦貫線を走る大阪ー青森間の特急「白鳥」は 1000kmを越える当時最長距離の昼行特急として、注目されました。これには、直江津で分割され信越本線経由上野までの列車も併結され、同じく特急「白鳥」を名乗っていました。父祖の地が、信州であり、何度と無く、お世話になった信越線の初めて特別急行列車の初運転列車になんとしても乗りたくて、切符を手に入れました。

 

 

特急白鳥運転の祝賀ムードの上野駅13,14番線ホーム 1961−10−1

 

 上野駅13、14番ホームには「祝北陸特急白鳥号」のサインが掲げられており、ホームの屋根の梁がモールで飾られています。

 

特急白鳥出発式の前,14番線ホーム 1961−10−1

 

 出発式のため、クス玉も準備され、8時50分の発車を待つばかりです。

 

一等車(キロ80形)の車内 1961−10−1       出発時、ウエイトレスが整列している食堂車(キシ80形) 1961−10−1

 

 上野ー直江津ー大阪間の「白鳥」信越編成は6両でしたが、全室の1等車、食堂車も連結されていました。 1等車はもちろんリクライニング・シートでしたが、白いカバーで背ずりが覆われており、より特別な車の感じがしました。信越線の列車の食堂車は初めてでした。

 

出発式のブラスバンド

 

 ブラスバンドの演奏に送られ、上野駅14番線ホームを出発です。

 

 

北陸本線、親不知の難所を走る特急白鳥  記念絵葉書

 

 乗車記念に絵葉書が配られました。善光寺、志賀高原の絵葉書と共に、新潟と富山の県境で、山が海に迫った親不知付近を走る12両編成の特急「白鳥」のモノクロ写真が入っていました。この付近は長大トンネルが開削され、このような風景は見る事が出来なくなりました。

 

長野県の白鳥運転祝賀のちらし

 

 「白鳥号」の運転には長野県も応分の負担をしたようで、県が作ったチラシがありました。中央線ヂーゼル急行運転まで、書いてあるのは、信越線と中央線沿線の対抗意識があり、いつも、そのバランスを取 る対策を行っていたこの県の特殊事情があるようでした。

 

食堂車のご案内

 

 食堂車は日本食堂上野営業所の営業であったようです。メニュー、車内販売品、時刻表の付いた食堂ご案内が配られました。

9.5p×12pの小さなものですが、三つ折で、メニュー、車内販売品、それに、白鳥号の時刻表もありました。

 上の「白鳥号列車食堂ご案内」をクリックして頂くと、ご覧頂けます。

 

横川駅でED42、3連が特急白鳥の後部に連結  1961−10−1

 

 下り「白鳥」号2003Dレは上野を発車すると高崎まで、停まりません。その次は横川で、碓氷峠をアブト式で登るため、後部にED42、3両を連結しました。

 

横川駅で乗務員に花束贈呈  1961−10−1

 

 その間に、客室乗務員に花束が贈呈されました。真ん中に貫禄のある乗客専務車掌を挟み、白い制服を身に着けた乗務員がおりました。青い腕章に「給仕」とありました。1等車や寝台車にはこのようなサービス係が当時は乗務しておりました。

 

ED42、3連に後押しされ碓氷峠を登る特急白鳥  1962−11

 

 横川ー軽井沢間ではエンジンを止め、ED42、3連に押され、登りました。

 

直江津駅3番線に到着の特急白鳥(信越編成)2003Dレ 1961−10−1

 

 軽井沢、長野にのみ停車し、直江津駅には13時54分の到着でした。

 

直江津駅5番線に到着の特急白鳥(青森編成)2002Dレ 1961−10−1

 

 青森からの「白鳥」号2002Dレは14時01分に到着しました。青森編成も信越編成と全く同じ組成の6両でした。

 

信越編成と青森編成)連結 1961−10−1

 

 3番線に到着した上野からの信越編成は5番線に転線し、5番線の青森編成の前に連結されました。

 

特急白鳥2002レ大阪行出発 直江津 1961−10−1

 

 堂々、12両編成になった上り特急「白鳥」号2002Dレは14時07分大阪に向かって出発して行きました。信越線からの列車はここで、下りが上りになりました。

 この日は、直江津で降り、15時10分発上り2004Dレ上野行特急「白鳥」号で帰途に着きました。大阪からの2001Dレは直江津15時06分着で青森行は15時09分発、上野行15時10分発と、併合の時に比べ、分離は迅速でした。

 

 

特急「はくたか」 長野   1969年

 

 信越編成は1965年(昭和40年)10月に「はくたか」として、上野ー金澤間の特急として独立しました。

「サンロクトオ」と言われた昭和36年10月のダイア大改正で生まれた気動車特急は全国の国鉄の近代化の第一歩だったのかも知れません。上に載せた「列車食堂ご案内」には

    

という標語がありました。それまでの汽車では、乗客はごみを座席の下に入れるのが普通でした。エアコンされた密閉車室の特急では、そんなことをしては駄目!と言っているようでした。気動車特急は日本の乗客も近代化したのかも知れません。東京オリンピックも3年後に控えていましたので! でも、窓から駅弁を買い、ゆっくりした旅の楽しみも失われたのかも知れません。

 

  (2008-3-1)

(2008-9-30)改訂


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