半世紀前の富山地鉄市内線の風景(1963年)
ほぼ半世紀前の昭和38年3月はじめに長い間住んでいた富山を後にして、一家で、上京しました。足かけ15年程、父の転勤で在住しておりました。当時、富山は東京からかなり遠いところで、もう、訪れることはあるまい!と思い、記念に街を少しカメラに収めました。富山地鉄市内線(富山市内軌道線)の走る風景はわずかですが、にぎわいを見せていた 繁華街の様子と共にご覧頂きましょう。最近、LRV(最新低床式路面電車)の導入で話題になっている富山の48年前の風景です。
富山の中心、西町(にしちょう)交差点です。環状線の西回りの電車が西町電停に停まっています。戦後生まれの半鋼製単車(4輪車)3500形です。 西町交差点の東側を見たもので、画面の奥が上り立町方面、手前が旅籠町、丸の内方面です。左右にクロスしている線路は市内軌道線の本線で左は富山駅方面、右は南富山駅方面です。 当時、富山市内線には本線(富山駅前〜電気ビル前〜西町〜南富山駅前)、環状線(富山駅前〜丸の内〜旅篭町〜西町〜上り立町〜電気ビル前〜富山駅前) と呉羽線(西町〜大学前)がありました。市内線が交差し、バスもたくさん走っており 西町は正に富山のかなめでした。
西町交差点より西側を見たもので、旅篭町から環状線は右折して、丸の内を経て、富山駅前に向かいます。この広い道のつきあたりには護国神社があります。遠くに呉羽丘陵が眺められます。かって、呉羽線は護国神社の前まで単線で走り、右折し、神通川のほとりの安野屋に達し、そこから神通川を渡りました。しかし、撮影当時は丸の内から左折し、安野屋に行くコースに変更されていたと思います。電車 は環状線東廻りの3500形です。
西町交差点の南西角(1枚目の写真の手前右)には大和デパート富山店が聳えておりました。富山で唯一つのデパートで7階建ての鉄筋コンクリート建のビルでした。屋上には遊園地、7階には大食堂があり、東京のデパートと同じでした。当時、富山には これと北陸電力本社の電気ビル以外に高い鉄筋コンクリートのビルはありませんでした。
富山一の繁華街、総曲輪も人でいっぱいでした。開閉式のアーケードがあり、3月ということでしょうか?造花とは思いますが花が飾られておりました。雪国富山では冬はゴム長を男性は履いておりました。富山の銀座である総曲輪でもそれは変わりませんでした。
市内線本線には7000形ボギー車が入っていました。これは都電8000形をベースにしたもので、端部の絞りがないので、8000形より、幅が広く見えました。路面電車の将来を見据えて 作られ、耐用年数10年と言われた8000形と同じ電車がまだ、走り続けているようです。大したものです。富山の主な道路は戦災の復旧時に拡幅したようで、電車の走る風景も広々としております。これは西町から南富山駅前方面に行った西中野付近 です。まだ、除雪した雪の山が残っております。
南富山から富山駅前まで、笹津線の電車が乗り入れておりました。南富山から南に飛越国境の山々が迫る笹津まで行く鉄道線でしたが、 路面電車タイプのデ5000形、5010形が走っておりました。架線電圧DC600V、ダイレクトコントローラ、床は高く、2段のステップがついていました。小泉町〜堀川小泉間を走るデ5004地鉄笹津行です。
富山の街は明治時代の神通川の大洪水、戦災にあい、歴史的な建造物、町並みはありませんが、市内線が走る道路は歩道付で広く、都会の雰囲気がありました。
謝辞
富山市在住のAさまより、環状線の撮影場所の同定を頂き、構成を変え、追記致しました。謝意を表したいと思います。
富山市在住のKさまより、デ7000形、デ5000形の写真の撮影場所の同定を頂きましたので追記改訂致しました。謝意を表したいと思います。
(2011-4-27)
(2011-5-27)改
(2011-9-23)改