1963年(昭和38年)のゴールデンウィークに友人と 東北の鉄道を訪ねる旅に出ました。4月27日の夜、上野を夜行で発ち、28日は仙北鉄道、栗原電鉄、花巻電鉄を堪能し、盛岡に一泊。翌29日は十和田南から、国鉄バスで十和田湖、それから、雪の掘割の中を奥入瀬渓谷を北上、青森に達しました。ここから、奥羽本線で、弘前 を経て、大鰐温泉で一泊しました。夜行、盛岡の駅前旅館に泊った後、初めての温泉でした。温泉でゆっくりし、翌4月30日は弘前電鉄です。

 大鰐から弘前市の中心街にある中央弘前まで、13.9km、軌間1,067mm、DC1500Vの1952年(昭和27年)に開通した新しい電気鉄道でした。

 この旅に同行した友人、宮さん撮影のカラー画像を追加致しました。岩木 山をバックにしたスカ色の電車をご覧願います。(2006/07/17追加)

 

弘前電鉄大鰐駅

 

モハ100形(モハ103)+クハニ200形、中央弘前行 大鰐 1963-4-30

 

 国鉄、奥羽本線大鰐駅に隣接して、弘前電鉄のホームがありました。新しい鉄道ですが、待っていた電車は木造車でした。電動車モハ100形はこの鉄道の建設を総合的に引き受けた三菱電機(株)が秩父鉄道より、購入したもので、電動機、制御器などを新品と交換し、就役させたものとのことです。前面も木造車とは思えないもので、窓も2段上昇タイプのようであり、新設鉄道の電車として、経済的制約の中で、如何にスマートに見せかけるか、苦労したのではないかと思われます。 塗色はブルーとイエローのツートンカラーでした。

 

乗車券と車内補充券

 

 乗車券は当時、関西の私鉄によく見られた料金区間別の共通のものに駅名の入った日付印を押すものでした。このような、営業面でも、三菱電機がサポートしていたのでしょう。大鰐ー中央弘前間を約30分ヘッドで運転していました。

 

モハ100形(モハ103)+クハニ200形、中央弘前行 津軽大沢 1963-4-30

 

 津軽大沢駅で、列車の交換をしました。ホームも高く、立派で、架線もシンプルカテナリーですが、木柱です。モハ103の窓は2段上昇のように見えましたが、この写真から見ると、1段下降窓で、窓の真ん中に桟が入っているもののようです。

 

クハニ200形(クハニ202)+モハ100形、大鰐行 津軽大沢 宮さん撮影 1963-4-30

 

クハニ200形(クハニ202)+モハ100形、大鰐行 津軽大沢 1963-4-30

 

上り、大鰐行きが入ってきました。モハ100形+クハニ200形、2連、2編成で普通は運転していたようで、予備の1編成と共に同じ型式の2連が3編成あるようでした。

背後には、津軽富士、岩木山がまだ雪をかぶり、聳えておりました。

 

クハニ200形(クハニ201)+モハ100形、西弘前 1963-4-30

 

 クハニ200形は国鉄のサハ(付随車)を同じく、三菱電機が買取り、制御器を取り付け、制御車にしたようです。これは、典型的な木造車スタイルでした。

 

モハ100形(モハ105)、西弘前 1963-4-30

 

 車庫は西弘前にありました。そこに、モハ100形、モハ105が休んでおりました。他のモハ100と同じく、秩父鉄道の木造車デハ10形、デハ14を譲り受けたものですが、鋼体化改造されていました。

 

モハ100形(モハ106)、西弘前 宮さん撮影  1963-4-30

 

  モハ100形(モハ106)も秩父鉄道から、譲受された電車と思われますが、マルーンにアイボリーの帯と他の車と異なっていました。訪問時は未だ、入線して間もないようでした。

 

中央弘前駅

 

 終点の中央弘前駅の写真はフィルムの劣化がひどく、ひび割れも多いので、お見ぐるしいものですが、地方鉄道のターミナルの雰囲気がありましたので、敢えて載せました。

 

この後、1970年(昭和45年)に弘南鉄道に吸収合併され、弘南鉄道大鰐線となり、車両も買収国電、西武の旧車などが入り様変わりしたようです。

 

ここでは、創業時の面影を残した弘前電鉄の車両をご覧頂きました。

 

 参考文献

  鉄道ピクトリアル、通巻128号 1962年3月 臨時増刊 私鉄車両めぐり第2分冊 「弘前電鉄」

  

宮さん撮影のカラー画像は、より転載させて頂いたものです。宮さん、むーさんに謝意を表したいと思います。

 

(2006-2-15)

(2006-7-17追加更新)
(2016-10-25)タイトル画像拡大更新


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