友人と卒業旅行で山陽、山陰地方を廻った1961年(昭和36年)3月に広島電鉄をすこし撮りましたが、まだ、単車が活躍しており、ボギー車も自社発注したものばかりでした。
9年後の1970年(昭和45年)に業務出張で、訪れたときは、大阪市電から譲り受けた電車も走り始めていました。神戸、京都、福岡からの電車も走るようになり、走る電車の博物館と言われた時代の始まりでした。
500形 501 的場町付近 1970-11
500形(2代目)は800形を前中扉扉にしたもので、1953年(昭和28年))にナニワ工機で5両作られました。2003年までに全車廃車になりました。
600形 602 猿猴橋町 1970-11
1942年(昭和17年)に加藤車両で3両作られた初代600形が未だ走っておりました。3扉、車長12.3m 大型高床式電車です。被爆電車で、この603は大破しましたが、復元しました。これから2年後の1972年に廃車になりました。広電の戦後の自社発注の電車は京都市電800形に範を取ったためか?中々のスタイルの電車が多かったように思いますが、この電車は武骨なスタイルですね!
650形 653 広島駅前 1970-11
650形は1942年(昭和17年)に木南車両製造で、5両製作された3扉、車長12.4mの大型車であり、大阪市電1651形をベースにして車長を短くしたものです。現存する被爆電車として、注目され、651~653が後扉を閉鎖してワンマンカーとして、在籍しております。しかし、この653は予備車的になっているようです。
750形 762 広島駅前 1970-11
750形は大阪市電、1601形、1651形、1801形を譲受し、纏めて、750形としました。761~764大阪市電1651形として、1940年に散水車を種車として、1940年(昭和15年)に木南車両で作られました。車長13.7m、3扉の大型車で、大きな2段上昇窓を持った均整の取れたスタイルは、米国、Pacific Electricのハリウッドカー、Class600あたりをルーツとして、日本向けにアレンジしたようで、戦前の市電標準型として各地の市電に大きな影響を与えたようです。上掲の650形もその一つのようで、バンパー、排障器が異なりますが、そっくりですね。広電には1965年(昭和40年)に譲渡されました。大阪市電時代に2人乗務体制になり、後ろの扉がなくなりました。ほとんどの750形は廃車になりましたが、この762は現役で走っているようです。
750形 765 的場町付近 1961-3
750形765は大阪市電1801形で、1950年(昭和25年)に作られたものですが、スタイルはほとんど変わりませんでした。750形は762を除いて、2015までに廃車になりました。
900形 907 猿猴橋町 1970-11
900形は大阪市電2601を1969年(昭和44年)に14両譲り受けたもので、初めて大阪市電色のまま運用され、以降、譲受した神戸市電、京都市電も原カラーで走らせ、広電が電車の動く博物館と言われるようになった端緒を作ったものです。2601形は大阪版PCCと言われた高性能電車3001形と同じ車体を用い、1001形などの古い電車の機器を使い1961年(昭和36年)までに作られたものです。現在、7両現役として走っておりますが、古い電車からの足回りは製造後、90年経ており、驚異的です。
2000形 2005 ? 1970-11
2000形は1960年(昭和35年)から、9両製作された宮島線直通用電車で、1962年(昭和37年)に宮島線直通運転が本格的に始まった時、直通色の淡いピンクにライトベネチアンレッドの帯が入ったいでたちになりました。しかし、この写真は宮島線直通ではなく、1系統(広島駅~宇品)として走っているものです。1974年(昭和49年)に連結化改造され、2両固定編成で宮島線直通用に運用されていました。2012年までに全車廃車になりましたが2004-2005だけは自社工場製造電車の記念品としてか?荒手車庫に留置されているとのことです。
2500形 2513 ? 1970-11
2500形は宮島線直通用に初めての2車体連接構造の電車として、1961年(昭和36年)からナニワ工機と自社工場で、5編成製作しました。しかし、1966年(昭和41年)から大阪市電1601形を譲り受け、2車体連接電車に改造しました。この写真は大阪市電を改造したものです。
業務出張の中で、本当に短い時間、広電を撮りました。広島駅前電停で撮り、紙屋町まで移動する電車の前面から対向電車を撮ったものですが、その時代の広電の姿をちょっと、ご覧頂きたいと思います。
参考ウェッブサイト
ウィキペデイア、フリー百科辞典 「広島電鉄」
(2016-5-8)