伊予鉄道は1888年(明治21年)に開業した日本で、南海に次ぐ古い歴史を持った私鉄です。このとき、開通した松山ー三津浜間は本邦初めての762mmゲージの軽便鉄道で、坊ちゃんが乗った列車としても有名です。

 その後、高浜まで延長され、1931年(昭和6年)に1,067mmに改軌、架線電圧DC600Vで電化され、高浜線になりました。このほか、電化された郡中線、非電化の横河原線、森松線が郊外線 (鉄道線)として、国鉄松山駅とはかなり離れた市の中心部に近い松山市駅から発着しておりました。駅前からは市内線が出ており、伊予鉄道の中心です。

 鉄道線は762mmゲージでしたが、昭和6年から12年にかけて、すべて1,067mmに改軌されました。

 1965年、ゴールデン・ウィークの中国、四国の鉄道の旅で、高知から、足摺岬を経て、5月4日には松山に到りました。市内線を撮りながら、松山市駅にきました。

 

松山市駅    1965-5-4

 

 松山市駅は堂々とした建物でした。 昭和6年予讃線開通で開業した国鉄松山駅より、はるかに古く、はじめは松山駅でしたが、国鉄駅に名前を譲り、松山市駅となったようです。駅前広場の真中に市内電車の乗り場がありました。

 

 

 

高浜線電車(モハ105+クハ405+モハニ205)と非電化線列車   松山市    1965-5-4

 

 本屋寄りの1番線から高浜線電車が北西方向(この写真の手前方向)に高浜に向って発車します。機廻り線2線を挟んだ2番線から非電化の横河原線、森松線の列車が 南東方向(この写真の奥行方向)に向います。非電化線はディーゼル機関車が幅の狭い客車を牽引する軽便鉄道のムードいっぱいの列車が運行されておりました。

この写真の右側の3番線より、郡中線の電車が出ていました。 高浜線、郡中線とも20分ヘッドの運転でした。

 

高浜線電車(モハ105+クハ405+モハニ205)   古町    1965-5-4

 

 高浜線電車に乗って、高浜まで往復しました。松山市駅から2っ目の古町には車庫、工場がありました。

 

高浜線電車(モハ102+クハ402+モハニ202)       1965-5-4

 

  松山市ー高浜間9.4kmを約20分で走ります。高浜の一つ手前の梅津寺まで複線です。MTMで走る電車の走る風景は東京の近郊私鉄の趣がありました。

 

高浜線電車(モハ二205+クハ405+モハ105)       1965-5-4

 

 モハニ200形+クハ400形+モハ100形がほぼ固定編成になっており、これで、ほとんどの列車を運行しているようです。

訪問時はすべての電車が自社発注車でした。

 

高浜駅に停車中の新鋭(モハ601+モハ602)      1965-5-4

 

 当時、ピカイチの600形で終点高浜に着きました。

 

高浜桟橋に着いた関西汽船「むらさき丸」      1965-5-4

 

 折から、高浜桟橋には別府から大阪に向う関西汽船「むらさき丸」が接岸しておりました。乗船、下船の人々で桟橋はいっぱいです。この時代、松山と関西へは海路が便利だったのでしょう。伊予鉄もこの恩恵にあずかっていたのかもしれません。

 


 

 

松山市駅の進入の郡中線列車(モハ104+クハ404+モハニ204)      1965-5-4

 

 郡中線、松山市ー郡中港間11.3km、全線単線の電化線(架線電圧DC600V)です。戦後の昭和25年に電化されました。

松山市駅の非電化線発着の2番線と同じホームの反対側の3番線から出ていました。

 

松山市駅を出る郡中線列車(モハ104+クハ404+モハニ204)       1965-5-4

 

 電車は高浜線と同じものが走っていました。松山市駅の非電化線車庫を右に見て、構内を出ます。

 

松山市駅を出て郡中港に向う郡中線列車(モハ104+クハ404+モハニ204)    1965-5-4

 

 直ぐ、左にカーブを切り、南西に行き、予讃線の伊予市駅(現在)の近くの郡中港に約25分で到ります。

 


 

 高浜線・郡中線を走る電車を見てみましょう。

 

モハ100形、モハ104 松山市 1965-5-4            モハ 100形、モハ105 松山市 1965-5-4

 

モハニ200形、モハニ201 古町車庫 1965-5-4 

 

 モハ100形、モハニ200形は高浜線の改軌、電化に備えて、1931年(昭和6年)に日本車両で新造されたもので、モハ4両、モハ二6両あり、訪れた時はまだ、主力として走っていました。前面非貫通、全幅アンチクライマー付、2段上昇窓、長さ16mのこの車は東京近郊の私鉄の電車 をベースに作られたのではないかと私見ですが、推定されると思います?

 モハ100形の中のモハ105、106は後述のクハ400形を電装したもので、1950年(昭和25年)製ですので、戦後私鉄標準設計のスタイルをしています。例えば、長野電鉄1000形と同じ顔つきです。

 

クハ400形、クハニ401 古町車庫 1965-5-4 

 

 1950年(昭和25年)に郡中線電化とMTM、3両編成化のため、クハ400、6両が帝国車両でつくられました。同時に、4両、日立で作られたモハ300形が上の写真の400形の後ろに見えます。他の電車はすべて、16m車でありましたが、何故か、14mの小型で 登場し、後に、18mに車体延長され、MM2両編成で運用されていました。しかし、予備車のような扱いでした。

 

モハ600形(モハ602+モハ601)  松山市 1965-5-4 

 

 600形は1958年(昭和33年)ナニワ工機製の全金属軽量車体、MM'永久連結、WN駆動の高性能電車でした。伝統的に使われていた吊り掛け式駆動に変わり、可撓継ぎ手を介したカルダン駆動、WN駆動は静かで、乗り心地の良い電車を実現し、新幹線にもつながる鉄道の革新的な技術で、これを使った電車は高性能電車と称されていました。国鉄でも1957年から作ったモハ90系(後の101系)が初めて の高性能電車でしたので、ローカル私鉄としては極めて早い導入でした。

 

モ二30形、モニ30  古町工場 1965-5-4 

 

 古町には鉄道線電車、市内線電車の車庫とともに、工場もありました。鉄道線、市内線の電車のみならず、非電化線の車両も担当していたようです。ここでは、4輪電車を改造した入れ替え用のモニ30が活躍していました。連結器がなく、押して 、入れ替えをしていたようです。

 

 すべて、自社発注の電車で運行されており、お隣の高松琴平電鉄(琴電)のように変化に富んでおりませんでしたので、当時も鉄道ファンの注目を集めてはいませんでした。しかし、改めて、44年前のマルーン一色の電車の走る風景を見ておりましたら、昭和10年代 の東京の郊外電車のイメージが重なりました。

 高浜線、郡中線とも健在で、横河原線にも電車が走るようになりましたが、ここに登場した電車はすべて、姿を消してしまいました。

 

参考文献

  鉄道ピクトリアル1966年7月〜10月号 通巻185〜9号、私鉄車両めぐり[67]伊予鉄道 

(2009-7-11)
(2016-10-28)タイトル、画像拡大更新



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