北九州のJNRの印象(1964年)
昭和39年(1964年)ゴールデンウィークの九州鉄道旅行は、特急「みずほ」で、門司駅に降り立ちました。
EF3014に牽かれて門司駅に到着のブルートレーン「はやぶさ」 1964−4−26
関門トンネル専用のステンレスボディの交直機EF30に牽かれた20系客車の特急「 はやぶさ」が、「みずほ」「あさかぜ」を
を追いかけるように門司駅に到着しました。この頃は、「さくら」「みずほ」「あさかぜ」「はやぶさ」と4本の寝台特急がが東京と九州を結んでおり、ブルートレーン全盛時代でした。20系の普通寝台車は3段でベッド幅も狭く、窮屈ではありましたが、完全エアコンで食堂車もある当時の豪華列車でした。
C11305牽引日田彦山線普通列車、日田行739レ発車 門司駅 1964−4−26
鹿児島本線は交流電化されており、 交直電車403系も走っていました。他の線区でも気動車列車も多くなっていましたが、未だ、蒸気機関車牽引の普通列車もたくさん走っておりました。
門司駅から日田彦山線の普通列車日田行739レがC11に牽かれ、出発して行きました。
門司駅で、当地に勤務のIさんと合流し、先ず、西鉄北九州線に乗り、小倉の中心魚町に行き、そこで、北方支線に乗り、城野に行きました。筑豊地区には石炭を運ぶ為の鉄道が、網の目のように走っており ました。未だ、石炭運搬列車も残っており、蒸気機関車が活躍しておりました。これを少し、お目に掛かりたいと思い、以下のルートで、筑豊本線の直方まで抜けました。
城野12:41−(日豊本線421レ)−行橋13:28−(田川線421レ)−14:18伊田14:28−(伊田線322レ)ー15:00直方
C11294牽引の421レ到着 城野 1964−4−26
日豊本線城野駅から行橋経由彦山行421レに乗り込みます。行橋から田川線経由で伊田まで行き、そこから日田彦山線に入り、彦山まで行く列車です。伊田で伊田線に乗り換え、直方まで行きました。田川線、伊田線は現在第三セクターの平成筑豊鉄道になっています。
石炭輸送列車牽引29651 宮さん撮影 1964−4−26 石炭専用ホッパー車セム6951 宮さん撮影 1964−4−26
石炭輸送列車 1964−4−26
石炭は既に斜陽になっていましたが、未だ、石炭輸送列車が運転されていました。セム、セフ等の石炭輸送専用のホッパー車を9600が牽いて居りました。
門デフ付9600、49692 1964−4−26
筑豊地区の主役は9600でした。日田彦山線の旅客列車はC11で牽引されていましたが、伊田線などでは旅客列車も9600でした。これは伊田駅でしょうか?門司鉄道管理局形デフレクタ (門デフ)を付けた9600がいました。
9600牽引伊田線普通列車、伊田行323レ発車 直方駅 1964−4−26
直方は筑豊本線の主要駅で広い構内を持っておりました。伊田線旅客列車が9600に牽かれて、出発して行きます。飯塚寄りの陸橋で、しばし、列車を眺めました。
29671牽引伊田線貨物列車 直方 1964−4−26
同じく9600が先頭に立つ伊田線貨物列車が出て行きます。
C5546牽引筑豊本線若松行普通728レ 直方 1964−4−26
伊田線の貨物列車とすれ違うように筑豊本線の上り旅客列車が入って来ました。さすが本線で、旅客列車はC55、貨物列車はD50でした。
C5511牽引筑豊本線原田行普通619レ 直方 1964−4−26
C55は2C1、パシフィックの急行旅客列車用機関車でC57の先輩でした。多くは北海道と九州に居て、今まで、お目に掛かれませんでした。門デフをかざしたC55はそのスポーク動輪 とあいまって、軽快で、俊敏な感じでした。
下り寝台特急「はやぶさ」西鹿児島行5レ 多々良川橋梁(箱崎ー吉塚) 1964−4−27
鹿児島本線はさすが九州の大動脈で、既に、交流電化されていました。鹿児島本線の吉塚ー箱崎間の多々良川橋梁は古来?より鉄道撮影の名所です。ここで、行き交う鹿児島本線の列車を撮りました。赤いED73が先頭の20系ブルートレーンはJNRの看板列車として風格がありました。
421系交直電車の鹿児島本線普通電車 多々良川橋梁(箱崎ー吉塚) 1964−4−27
421系交直電車の鹿児島本線普通電車 多々良川橋梁(箱崎ー吉塚) 1964−4−27
門司港ー久留米、荒木間の普通電車は交直電車403系で運転され、関門トンネルを通り、山陽本線小郡の直流電化区間とも直通運転をしていました。ぶどう色というのでしょうか?赤紫の交流電車色は良い色で、懐かしく思われます。
上り気動車準急「くまがわ」門司港行810Dレ 多々良川橋梁(箱崎ー吉塚) 1964−4−27
肥薩線の人吉始発の気動車準急「くまがわ」門司港行810Dレはキハ26などの5両編成でした。この頃は、気動車準急が九州内をくまなく走っており、未だ、鉄道が中距離移動の主役であったことを窺わせました。
貨物線多々良川橋梁上の8620(28627) 1964−4−27
多々良川には、鹿児島本線橋梁の河口側に西鉄宮地岳線の石橋、更にその川下に貨物線の橋梁がありました。この上にコンテナ貨物をバックで牽引する8620の姿がありました。鉄道貨物の近代化のシンボルであるコンテナ貨物を蒸機が牽く姿はこの時代では日常的であったのでは?と思います。
ED73(ED738)牽引の石炭輸送列車 箱崎ー吉塚 1964−4−27
最新の交流電気機関車が石炭輸送列車を牽引するというのもこの時代ではあったのですね。
交流電化や気動車による鉄道の近代化も進んでいましたが、未だ、蒸気機関車も盛んに活躍していた九州の国鉄(JNR)でした。私鉄ファンを自認しており、私鉄の車両を撮ることが多く、断片的なものしかありませんが、40年前の北九州のJNRの面影をご覧頂けたと思います。
謝辞
「D6061(若)べっち」様より、交直電車の形式に付、誤りをご指摘頂き、訂正致しました。
深謝致します。
(2012-2-2)改訂
(2007-1-20)