豊肥本線の立野から高森に到る高森線(現、南阿蘇鉄道)の立野ー長陽間にある第一白川橋梁は1928年(昭和3年)に作られたわが国初めての鋼製アーチ橋で、高さは61mあり、かっては日本一でした。この橋梁を見上げるように白川渓谷 の畔に戸下温泉がありました。一軒宿の碧翠楼にで泊りました。

 

第一白川橋梁上を行くC12牽引の下り高森行混合列車   1964-4-30

 

 温泉に浸かりながら、高い橋梁の上を行くC12牽引の混合列車(ミキスト)を見上げることが出来ました。C12のカマの火でしょうか?赤く燃えた火の塊が夜の闇の中を鉄橋の上を通っていったことも忘れることが出来ません。 戸下温泉はもうありません。

 

立野駅に入ってきたC1225牽引高森線列車      1964-4-30

 

立野駅ホームとC1225牽引高森線列車      1964-4-30

 

 高森線は未だC12が活躍していました。2両の客車と1−2両の貨車を牽いていました。立野駅にはターンテーブルは無く、立野行上りは正位、高森行下りは逆位で運転されていました。

 

立野駅と山腹を行く準急気動車  1964-4-30

 

 立野駅は阿蘇外輪山南麓のスイッチバック駅です。 駅の構造は現在もかわりませんが、この時代はなにか、のどかな感じがありました。豊肥本線は更にもう一度、スイッチバックして、阿蘇に向かいます。高森線はこの写真左手前に直進しています。豊肥本線は、普通列車も含めて、気動車化されていました。観光路線として、国鉄も力を入れていたのでしょう。気動車準急「 火の山」「ひまわり」はもうキハ58で運転されていました。

 

 

阿蘇を背にスイッチバックを行く気動車普通列車  1964-4-30

 

 熊本方面より、4両編成の気動車列車が登って来て、立野駅に進入してゆきます。(左の写真)、立野駅でスイッチバックして方向を変え、次のスイッチバックに向けて、登って行きました。( 右の写真)

 

キハユニ25を従えた気動車普通列車、立野駅進入  1964-4-30

 

阿蘇に向かい次のスイッチバックに向け登る気動車列車  1964-4-30

 

 

スイッチバックして阿蘇に向かう気動車列車  1964-4-30

 

 普通列車はキハ52が主に使われ、キハ55も入っていたようです。キハユニ25が連結している列車もありました。


 

 鹿児島本線は北から交流電化が進み、訪れた時は、久留米の次の荒木まで、達していました。

 

C5931牽引の下り寝台特急「みずほ」熊本行、上熊本駅を通過   1964-4-30

 

C5931牽引の下り寝台特急「みずほ」熊本行(後部)、上熊本駅を通過   1964-4-30

 

 東京よりのブルートレーン 寝台特急「みずほ」は門司からED73に牽引され、鳥栖からはC59に交代し、熊本まで走りました。最後の短い区間ですが、C5931はトレーンマークを掲げ、疾走してきました。熊本までの電化も2年と待たずに完成しま たので、C59の最後の花道と言えるのでしょう。

 C59のボイラーの先端は丸みを帯びていましたが、このC5931はD51量産機のように角ばっており、C5932と共に、変形機のようです。

 

C6132牽引の下り寝台特急「はやぶさ」西鹿児島行、上熊本ー熊本   1964-4-30

 

 

 

C6132牽引の下り寝台特急「はやぶさ」西鹿児島行、上熊本ー熊本   1964-4-30

 

 「みずほ」に続いて、西鹿児島行「はやぶさ」がきました。牽引機はC61でした。熊本以南の鹿児島本線にはC59が入れなかったのでしょう。 C61はあまり脚光を浴びることの無かった機関車でしたが、「はやぶさ」を博多から西鹿児島まで、牽引していました。これも、C61の晴れ舞台ではなかったかと思います。

 

 このページは翌檜鉄道さんのご協力により作成しました。謝意を表したいと思います。

  (2007-4-5)
(2016-10-29)タイトル改訂


 

 


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