北陸鉄道4ー 加南線(1963年)
(リニューアル版)

  北陸鉄道、加南線は

      山中線    大聖寺ー河南ー山中間             8.6km 

      山代線    新動橋ー宇和野ー山代ー河南間                6.3km

      粟津線    新粟津ー粟津温泉ー那谷寺ー宇和野間     11.2km

      片山津線   動橋ー片山津間                 2.7km 

から構成されていました。加賀温泉郷の山中温泉、山代温泉、粟津温泉、片山津温泉と国鉄線を結んでいた路線で、観光路線として、北鉄で最も華やかな路線でした。

 1963年(昭和38年)9月に友人と訪れました。この時、既に、粟津線はありませんでした。(昭和37年11月廃止)

 しかし、スマートな新車「くたに号」が前年、昭和37年7月に、本邦初のアルミカー「しらさぎ号」がその年、昭和38年7月に登場し、鉄道ファンの話題になっていました。

 

くたに号(クモハ6001+クハ6051)

               

 先ず、なんといっても、くたに号をご覧頂きましょう

 

クモハ6001+クハ6051 大聖寺ー帝国繊維前 昭38/9

 

 

クモハ6001+クハ6051 河南 昭38/9

 

クモハ6001+クハ6051 河南付近 昭38/9

 

 くたに号は前面が斬新な2枚窓、2両固定編成、北鉄唯一の平行カルダン駆動、車内は転換クロスの冷房こそなかったが当時のトップクラスの電車でありました。(昭和37年7月、日車製造)、前面窓下には「くたに」と書かれた九谷焼のエンブレムを付けており、一寸、粋な顔つきをしていました。この電車の出現で北鉄の名を全国的に高めたといっても言い過ぎではないでしょう。大聖寺ー山中間で主に運行されていました。

 

しらさぎ号(クモハ60 11+クハ6061)

 

クハ6061+クモハ6011 河南  昭38/9

 

クハ6061+クモハ6011 大聖寺ー帝国繊維前  昭38/9

 

 

しらさぎ号車内  昭38/9

 

 しらさぎ号は訪れた時には入線して間もないほやほやの新車でした。日本最初のアルミカーで、斬新な容貌をしていました。2両永久連結、車長18.8m、車内、転換クロスはくたに号と同じでしたが、足廻りは旧車のものの流用で吊り掛け式でした。(昭和38年7月、日車製造)

 くたに号、しらさぎ号とも、加南線廃止後、大井川鉄道に貰われて行きました。しかし、くたに号はすでになく、しらさぎ号も予備車的な存在で、営業運転に使われることはないようです。

 

 

モハ1811

 

モハ1810形、モハ1811、山中 昭和38/9

 

                                               モハ1811のダイレクトコントローラ 昭和38/9          その運転  昭和38/9 

 

 モハ1810形、モハ1811は昭和18年、木南車両製で、車長15.4m、前面が丸みを帯びた3枚窓の当時の郊外電車の標準的なスタイルです。モハ1810形は片山津線に使われていたモハ1800等と共に、加南線の主力車両であったようですが、くたに号、しらさぎ号の新製により、加南線を追われる身となったようで、訪れた時はその最後の活躍であったようです。 驚いたことに、主回路の抵抗を運転台の制御器で直接切り替える方式ーダイレクトコントローラーであったことです。 路面電車のように、2個の小容量電動機を制御するのにはダイレクトコントローラはよく使われていましたが、50PS×4台の電動機を制御する郊外電車に使われているのを初めて拝見しました。操作は力がいるようで、コントローラの丸ハンドルを両手で扱っていました。他線区に移動後は間接制御に改造されたようです。

 

モハ5002

 

モハ5000形、モハ5002、山代車庫 昭和38/9

 

モハ5002のクロスシート、山代車庫 昭和38/9

 

 モハ5000形は石川総線の5100形に先立ち、昭和25年に広瀬車両で作られた車で、車内には固定クロスシートが設けられていました。この後、石川総線に移動、改造、改番して、7000形登場まで使用されていたようです。その時、ロングシートにされました。

 

モハ3201+クハ1001

 

モハ3200形、モハ3201、山代車庫 昭和38/9

 

クハ1000形、クハ1001、山代車庫 昭和38/9

 

 モハ3200形、モハ3201は昭和32年に日本車両で製作された全鋼、張り上げ、ノーシル、ノーヘッダーの車両で、石川総線モハ3010形、金石線モハ3300形と同じ系統の車で、同じスタイルの同時に日本車両で作られたクハ1000形、クハ1001と一緒に走っていました。固定編成ではありませんがが、きれいな編成美がありました。くたに号、しらさぎ号が出来る前は、山中線の主力として活躍していたようですが、訪問時は山代車庫で休んでいました。この後、昭和39年に石川総線に行きました。

 

サハ561

 

サハ560形、サハ561、山中 昭和38/9

 

 山中駅構内に小さなダブルルーフの木造ボギー車、サハ560形、サハ561がいました。加南線の前身、温泉電軌からの引継車で、元は国鉄の木造客車であったようです。(大正5年、日車製)

 訪れた昭和38年に廃車になりました。

 

モヤ503

 

モヤ503、山代車庫 昭和38/9

 

 訪問時はモヤ503を名乗っていましたが、後に、EB221と改称した北鉄名物「電気機関車もどき」です。元は小松線の前身白山電気鉄道、創業時の木造単車とのことですが、ボギー化され、鋼体化されているので、元車の面影は全くありません。後に、浅野川線に移り、北鉄金沢駅構内の貨車の操車に従事したようです。

 

 以上、40年前の加南線の最も良き時代に訪れた時の電車でした。粟津線こそ、国道8号線の平面交差の解消などという理由で廃止されていましたが、山中線は観光客で賑わっていました。

 しかし、片山津線が昭和40年9月に廃止され、山中、山代両線も国鉄、加賀温泉駅の開業で、人の流れが変わったのが乗客の減少に追い打ちをかけ、昭和46年7月に廃止になってしまいました。訪問から、わずか8年後のことでした。

 

参考文献

 鉄道ピクトリアル Vol.218 私鉄車両めぐり[77] 北陸鉄道(3)

 

(2005-5-2)



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