北陸鉄道、加南線は
山中線 大聖寺ー河南ー山中間 8.6km
山代線 新動橋ー宇和野ー山代ー河南間 6.3km
粟津線 新粟津ー粟津温泉ー那谷寺ー宇和野間 11.2km (昭和37年11月廃止)
片山津線 動橋ー片山津間 2.7km
から構成されていました。加賀温泉郷の山中温泉、山代温泉、片山津温泉と国鉄線を結んでいた路線で、1963年(昭和38年)当時は観光客が多く、繁盛しておりました。
乗客を満載して大聖寺駅を出発する山中行モハ1810形モハ1812 昭和38/9
すし詰めの乗客を乗せ、車内に入れなくなった車掌が連結器の上に乗り、次発待機の「しらさぎ号」6000形の横を通り、出発して行きました。
この観光客急増に応えるため、北鉄では、本線格の石川総線より先に大型電車を就役させ、「くたに号」「しらさぎ号」を登場させました。
モハ1810形
モハ1810形、モハ1811、山中 昭和38/9
モハ1811のダイレクトコントローラ 昭和38/9 その運転 昭和38/9
モハ1810形は戦争末期の昭和18年、木南車両製。昭和16年の山代車庫の火災により、営業車の殆どを失い、物資の少ないさなかに作られたものにしては、半鋼車で車長15.4m、前面が丸みを帯びた3枚窓の当時の郊外電車の標準的なスタイルをしています。モハ1810形は片山津線に使われていたモハ1800等と共に、加南線の主力車両であったようですが、くたに号、しらさぎ号の新製により、加南線を追われる身となったようで、昭和38年はその最後の活躍であったようです。 驚いたことに、主回路の抵抗を運転台の制御器で直接切り替える方式ーダイレクトコントローラーであったことです。
路面電車のように、2個の小容量電動機を制御するのにはダイレクトコントローラはよく使われていましたが、50PS×4台の電動機を制御する鉄道線電車に使われているのを初めて拝見しました。操作は力がいるようで、コントローラの丸ハンドルを両手で扱っていました。
モハ5000形
モハ5000形、モハ5002、山代車庫 昭和38/9
モハ5002のクロスシート、山代車庫 昭和38/9
モハ5000形は石川総線の5100形に先立ち、昭和25年に広瀬車両で作られた車で、車内には固定クロスシートが設けられていました。この後、石川総線に移動、改造、改番して、7000形登場まで使用されていたようです。その時、ロングシートにされました。
モハ3200形+クハ1000形
クハ1001+モハ3201 大聖寺 昭38/9
モハ3200形、モハ3201は昭和32年に日本車両で製作された全鋼、張り上げ、ノーシル、ノーヘッダーの車両で、石川総線モハ3010形、金石線モハ3300形と同じ系統の車で、同じスタイルの同時に日本車両で作られたクハ1000形、クハ1001と一緒に走っていました。固定編成ではありませんがが、きれいな編成美がありました。
くたに号(クモハ6001+クハ6051)
クモハ6001+クハ6051 大聖寺ー帝国繊維前 昭38/9
くたに号は前面が斬新な2枚窓、2両固定編成、北鉄唯一の平行カルダン駆動、車内は転換クロスの冷房こそなかったが当時のトップクラスの電車でありました。(昭和37年7月、日車製造)、前面窓下には「くたに」と書かれた九谷焼のエンブレムを付けており、一寸、粋な顔つきをしていました。
しらさぎ号(クモハ60 11+クハ6061)
クハ6061+クモハ6011 河南 昭38/9 クハ6061+クモハ6011 大聖寺ー帝国繊維前 昭38/9
クハ6061運転台
クハ6061+クモハ6011クロスシート 昭和38/9
しらさぎ号車内 昭38/9
しらさぎ号は訪れた時には入線して間もないほやほやの新車でした。日本最初のアルミカーで、斬新な容貌をしていました。2両永久連結、車長18.8m、車内、転換クロスはくたに号と同じでしたが、足廻りは旧車のものの流用で吊り掛け式でした。(昭和38年7月、日車製造)
くたに号、しらさぎ号とも、加南線廃止後、大井川鉄道に貰われて行きました。しかし、くたに号はすでになく、しらさぎ号も予備車的な存在で、営業運転に使われることはないようです。
このように繁盛していましたが、特急停車駅を山中温泉の入り口、大聖寺(ダイショウジ)駅と山代、片山津温泉の玄関口の動橋(イブリハシ)駅で争奪戦になり、困った国鉄は1970年(昭和45年)に両駅の中間の作見駅を加賀温泉駅と改称、特急停車駅としました。このため、観光客のルートが変わり、加南線の乗客は大きく、減少し、1971年(昭和46年)7月に廃止になってしまいました。繁盛を目の当たりにした昭和38年から8年後のことでした。
参考文献
鉄道ピクトリアル Vol.218 私鉄車両めぐり[77] 北陸鉄道(3)
(2021-8-11)