1963年(昭和38年)のゴールデンウィーク、4月27日夜夜行で発った友人との東北鉄道訪問旅行は、30日朝、弘前電鉄を楽しんだ後、弘前から奥羽本線、川部で黒石線に乗り換え、黒石に着きました。ここから、弘南鉄道です。
この旅に同行した友人、宮さん撮影のカラー画像にクハニ1272の画像を置き換えました。当時の弘南鉄道のカラーをご覧願います。(2006/07/17追加)
弘南黒石駅 1963-4-30
弘南黒石の駅前にはバスが沢山いました。日野のボンネットバスや日産のオーバーキャブと言いましたでしょうか?、エンジンルームが運転台の横にめり込んだ箱形バスなどもあり、今、見ると懐かしいものです。
弘南鉄道は弘前ー弘南黒石間16.8km、軌間1067mm、の電気鉄道でした。奥羽線に取り残されたルート上に1927年(昭和2年)弘前ー津軽尾上間で蒸気機関車牽引で、開通した鉄道ですが、戦後、1950年 (昭和25年)、黒石まで、伸延、電化しました。電化当初は架線電圧DC600Vで南海電鉄などから、比較的小型の電車を譲受して運転していたようです。乗客の増加により、 1961年(昭和36年)9月にに架線電圧をDC1500Vに昇圧、より大型の電車を国鉄、西武から譲り受け、就役させるようになりました。訪問した時は、大型電車が走 りはじめて間もない頃でした。
クハニ1272 弘南黒石 宮さん撮影 1963-4-30
弘南黒石駅のホームは1線、1面のみでしたが、電車もすっぽり入る大きな屋根がありました。しかし、木製で、ドームというより、雪囲いが駅にあるという感じでした。
クハニ1272+モハ2232の2連、弘前行が客を待っていました。
クハニ1271、1272は1929年(昭和4年)に日車で造られた伊那電気鉄道サハニフ403,404で、国鉄買収後、仙石線で働いていましたが、1958年(昭和33年)に制御車に改造、払い下げられたものです。
モハ2232 弘南黒石 1963-4-30
モハ2231〜2233は1928年(昭和3年)、川崎造船所製、元西武の電車で、1500V昇圧に合わせて譲受したものです。昭和初期の川崎造船所製といえば、阪急600形のような屋根の深い全鋼製の電車を連想しますが、このようなスタイルの電車もあったのですね。
ラッセル車 キ4 弘南黒石 1963-4-30
弘南黒石駅の留置線にいかめしい顔をした木造のラッセル車が居ました。このような本格的なラッセル車を持っている私鉄は少ないと思います。国鉄からの払い下げ品のようです。
平賀車庫の電車群1 平賀 1963-4-30
平賀車庫の電車群2 平賀 1963-4-30
車庫は平賀にありました。しかし、先を急いでいたようで、木造2棟、4線の狭い車庫には電車が沢山おりましたが、電車の中からチラッと見ただけでした。一番、外側に居た2扉の車は近鉄モ2200のように車端に扉があり、長距離用電車であったことを想像させます。1928年(昭和3年)新潟鉄工製の元富士身延鉄道の全鋼車モハ112であり、クロスシートを装備していました。車長は17mですが、弘南では大きく、堂々としています。モハ2250を名乗っており、クロスシートはそのままであったようです。
真ん中の線の先頭は、同じく、元富士身延鉄道クハユニ301、1928年(昭和3年)日車製、全鋼貨物合造制御車のクハニ1281と思われます。この電車も長距離用で、クロスシートを備えておりました。
こんな面白い車が居たなら、平賀で降りて、ゆっくり写すべきだったなんて、今、考えても惜しかったと思います。
ED333 弘前 1963-4-30
貨物輸送も盛んであったようで、弘前には一寸異形の凸型電機ED333が居ました。西武から譲受した元西武No.13、1922年(大正12年)ウエスティングハウス製のB-B凸型電気機関車です。
以上、弘南鉄道は通り抜けただけでありました。
しかし、弘前近郊鉄道として、乗客は増加の一途であり、廃止が話題になっている他の地方鉄道とはちがっていたようです。この後、弘前電鉄を吸収合併し、国鉄黒石線も引き取り、かなりの勢いがあったようです。
参考文献
鉄道ピクトリアル、通巻232号 1969年12月 臨時増刊 私鉄車両めぐり第10分冊 「弘南鉄道」
宮さん撮影のカラー画像は、より転載させて頂いたものです。宮さん、むーさんに謝意を表したいと思います。
(2006-2-15)
(2006-7-17更新)
(2016-10-31)タイトル更新