急行「志賀」(1961-67年)
こんな切符がありました。長野電鉄湯田中から屋代線経由で上野まで直通運転されていた急行「志賀」の連絡切符と連絡急行券です。
急行「志賀」は1961年(昭和36年)5月1日からキハ57系で信越本線、上野〜長野間に運転された気動車急行でした。キハ57は本格的な急行用気動車として作られたキハ58系と同系列で、碓氷峠のアプト式を通過するため、空気ばね、ディスクブレーキを装備したものでした。主形式のキハ58系はこの年の10月1日に中央東線新宿〜松本間の急行「アルプス」として初めて運転されましたが、これより、5ヵ月早く運転開始されました。7年毎の善光寺ご開帳がこの年にあり、これに合わせて、急いだようですが、同年10月1日から走り始める特急「白鳥」のアブト式通過の露払い的な目的もあったのかもしれません。
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下り急行「志賀」長野行301Dレ 熊の平 1961−5
碓氷峠、アブト式区間の中間駅、熊の平で、列車交換待ちの運転開始当初の下り急行「志賀」キハ57系、6連です。
下り急行「志賀」長野行301Dレ 軽井沢 1961−5
ED42、4連に押されて、軽井沢駅に到着です。
軽井沢を出発する下り急行「志賀」長野行301Dレ 軽井沢 1961−5
エンジンをふかせて、長野に向けて、出発します。
上り急行「志賀」上野行304Dレ 軽井沢 1961−7-23
廃止が近づく草軽電鉄を撮りにいった帰途、軽井沢より、急行「志賀」に乗りました。人気が高かったようで、多くの人が待っています。対向の下り普通列車の客も新型気動車急行に見入っていました。
上り気動車急行 軽井沢ー熊の平 1962−10
1962年(昭和37年)3月1日より、屋代より長野電鉄線に入り湯田中まで直通する2両を併結し、7両運転になりました。このあたりからヘッドマークもなくなってしまいました。併結の時、邪魔になるからかもしれませんが、1961年(昭和36年)10月1日から「志賀」以外に「丸池」「とがくし」などの急行も走るようになり、ヘッドマークを付けるのが面倒になったのかもしれません。
上り気動車急行 熊の平ー横川 1962−10
アブト区間を走るキハ57系急行です。
上り急行「とがくし」302Dレ 横川 1962−7-15
1962年(昭和37年)7月15日に高崎〜横川間が電化され、上野〜横川間に80系運転の電車準急「軽井沢」が走り初めました。その到着の際、上り線に到着したキハ57系急行「とがくし」です。
碓氷川を渡る下り気動車急行 磯部ー松井田 1962−3
電化直前の碓氷川橋梁を渡るキハ57系急行です。
神保原駅通過の下り気動車急行 神保原 1962−7-15
高崎線神保原駅を通過する信越線下りキハ57系急行列車です。
長野電鉄線を走る上り電車急行「志賀」上野行 信濃竹原 1967−8
1963年(昭和38年)10月1日に横川〜軽井沢間粘着新線の本格的運用、軽井沢〜長野間電化により、キハ57系気動車は165系電車に置き換えられ、増発されました。長野電鉄乗り入れも3両になり「第1志賀」「第2志賀」の2往復になりました。小さなトレーンマークも付きました。長野電鉄、信州中野〜湯田中間は約40パーミルの急勾配が続きますので、キハ57は速度が上がらず、各駅停車の電車と同じ時間がかかりましたが、これで、解決しました。165系は8両編成で、横軽間は直通ブレーキだけを生かし、力行はし ませんでした。このため、連結器の座屈等の恐れがあり、8両以上には出来なかったのです。横軽間もEF63と協調力行運転が出来る169系を作り、ビュッフェカーも組み込んだ12両運転の急行「信洲」「志賀」を、1968年(昭和43年)10月1日のダイア改正から運転を始めました。長野電鉄乗り入れは、1982年(昭和57年)11月迄、続きました。
信越線の電車急行は最盛期、7往復まで増えましたが、特急「あさま」に主役を奪われ、1985年(昭和60年)には消滅してしまいました。
そして、1997年(平成9年)長野新幹線開業と共に、横川〜軽井沢間廃止、軽井沢〜篠の井間、「しなの鉄道」移管により、これらの姿は思い出の中にだけに生きることになりました。
今から50年前に全国に先駆けて、走り始めた本格的気動車急行「志賀」の初期の姿を中心にご覧頂きました。
謝辞
地元ご在住のてっこ様よりアドバイスを頂き、キハ57置き換えの電車について、訂正、追記致しました。
ご協力に深謝いたします。
参考文献
鉄道ピクトリアル1962年8月号 通巻134号「信濃の鉄道特集」 小林宇一郎 信州の気動車
(2011-1-23)
(2011-2-2)訂
このほか、以下の信越本線関係のページがあります。