長野電鉄

(1957〜61年)

 

 長野電鉄は、父祖の地が沿線にありますので、年に一回は必ず乗ります。志賀高原に行く電車として、多くの人に利用され、地方私鉄としては、トップクラスの著名度があり、ファンも多いのではと思います。鉄道ファンとして、ものごころが付いた昭和32年(1957年)頃より、撮っていますが、いささか、散漫で、これをどのようにお目に掛けようか!と思っておりました。

 長電の戦後の車両の変遷を勝手に分けて見ますと、次の4つに大別できると思います。

 

 小布施の項に2000系特急のカラー画像を追加しました。余り、クリアなものではありませんが、2000系のオリジナルな色をご覧頂きたいと思います。(2006-5-17追加)

 

 

マルーン時代                          ツートンカラー時代

                                  (上の画像をクリックするとツートンカラーの長電がご覧頂けます。)

 

赤がえる時代                    ステンレス時代

 

 マルーン時代−戦前からの電車も活躍しておりましたが、戦後の日車標準スタイルの1000、1500形が主役

             でした。1957年(昭和32年)には特急車2000系も登場しました。 色はやや赤みがかった

             マルーン一色でした。2000系もマルーンに白帯のいでたちでした。

 

 ツートンカラー時代−昭和30年代の終わりぐらいからだったでしょうか?電車は時の流行により、赤とクリーム

                のツートンカラーになりました。

 

 赤がえる時代ー東急5000系「青がえる」が長電に来て「赤がえる」になりました。普通電車はほぼ「赤がえる」

            になり、長電の景色も一変しました。

 

 ステンレス時代ー「赤がえる」も寄る年波には勝てず、営団日比谷線3000型が長電に来て、「赤がえる」に取って

              代わりました。

 

 ここでは、40年前のマルーン時代の長電の風景、電車をご覧頂きたいと思います。全て、モノクロで、フィルムの保存状態が良くないものもあり、お見苦しい画像もあろうかと思いますが、ご容赦願います。

 

長野電鉄路線図

 

 長野電鉄は信越線に取り残された千曲川の東の地域の交通の便を目的とした河東鉄道(屋代ー松代ー須坂ー信州中野ー木島)を発祥の路線とし、後に長野ー須坂間を開通させた長野電気鉄道と合併し、長野電鉄となったものです。後に

信州中野ー湯田中間の山の内線を1928年(昭和3年)に開通させ、全盛期の路線、70.6kmを完成させました。旧河東鉄道の路線を河東線、旧長野電気鉄道の部分を長野線と称していましたが、実際の運行は長野ー須坂ー信州中野ー湯田中間33kmを本線としていました。

 

 実際に頻繁に乗ったのもこの区間でした。

この路線に沿って、長電の電車をご覧頂きましょう。

長野駅

   長野駅は駅前広場の北側にありましたが、島式ホーム1面、2両分しかなく、3両編成の先頭の車に乗る場合は、国鉄貨物ホームに行く踏切の先のホームまで、行かねばなりませんでした。地下化するまで、何か仮駅のような雰囲気でした。
 

長野駅構内  Yさん撮影   1961年頃

 金沢の友人Yさんより、長野駅構内の写真を提供頂きましたので、挿入致しました。(2007-5-23)

 

 2両分のホームは ドーム状の屋根で覆われ、その終端部に小さな駅舎があり、駅前広場に面しておりました。「志賀高原・山の内温泉郷」「長野電鉄のりば」の看板が見えます。国鉄長野駅の寺社建築の本屋の屋根もみえます。

 1500形3連が発車しようとしています。2000系特急が発車を待っています。

 左端の線路はホーム手前で、土止めで覆われていますが、その昔は国鉄との連絡線であったのではないかと思います。

 

長野市の繁華街の権堂(ごんどう)駅は2面ホームにドーム状の屋根がある立派なもので、長野電気鉄道が長野のターミナル駅として考えていたことが窺えます。 善光寺の鎮座する城山の麓の善光寺下まで25パーミルの坂を登ります。ここまでが長野の市街地で、建物も線路に近く、撮影もしていませんでした。この区間は現在、地下化しています。

 次の本郷からは住宅地となり、ぐっとのどかになります。本郷付近の電車を先ずご覧頂きましょう。

 

本郷付近

 

1000系3連、湯田中行 本郷 1959-3-14

 

 1000型、1500型は戦後の日本車両標準タイプで、総勢14両あり、この時代の長電の主力電車でした。車長17.6m

d3D7D3dの窓配置、前面3窓で丸みを帯びており、良くまとまっているスタイルといえましょう。マルーン一色で、前面には方向案内板もつけないで、運転していました。長電では戦前から、側面のサボだけで、前面には急行運転以外ではなにも付けていませんでした。マルーンで、何もつけていない顔は引き締まった感じがしました。

 1000型は1948、49年製造、1500型は1951年製造ですが、外形は全く変わりませんので、ここでは、1000系としました。 

 

2000系3連、特急「しらね」長野行 桐原ー本郷間 1959-3-14

 

 2000系は1957年に登場した転換クロスシートを備えた特急用電車で、名鉄5000系と似ていますが、下部の丸みが無く

レッドマルーンに細い白帯という装いとともに、よりシックな電車になりました。 愛称を記したトレーンマークを付けていました。座席指定であったと思います。 モハ2001+サハ2051+モハ2002、A編成

 

クハ50型   クハ51             本郷 1959-3-14

 

 クハ51は1955年に国鉄から譲受した旧信濃鉄道(現、大糸線、松本ー大町間)の木造車です。これ以外にモハ1、

クハニ61も入りましたが、程なく、鋼体化改造されています。長電に木造車が走ったのは、1955年から約5年の短期間でした。

 

モハ300型、単行 朝陽行 本郷 1959-3-14                2000系(トレーンマークなし) 本郷 1959-3-14

 

 モハ300型は戦時中の1941年に汽車会社で新製されたもので、窓配置、2段上昇式の窓など、1000系と同じですが前面のふくらみが少なく、違った印象を与えます。長野ー朝陽(あさひ)間のローカルとして、単行運転しています。

 2000系もトレーンマークをどこかに忘れたのか、付けずに走っている列車もありました。一寸、印象が変わります。

 

信濃吉田〜朝陽

 

 信濃吉田ー朝陽間で国鉄、信越本線をオーバークロスします。長電と平行して、用水もオーバークロスします。東には志賀高原から菅平に続く山並み、北には北信五岳を見ることが出来ます。 

 

1000系2連、下り列車 信濃吉田ー朝陽間 1961-3  

 

モハ200型モハ201、上り長野行 信濃吉田ー朝陽間 1961-3  

 

 モハ200型は1933年に汽車会社で製造された電車で、窓配置1D7D7D1 一段下降窓、車長16.5mのやや古臭い電車でした。後部はモハ100型と考えられますが、これは1924年長野電気鉄道開通の時の電車で、200型もそれをほぼ踏襲していますので、古臭い感じがしたのでしょう!

 写真の左下には国鉄信越線の線路が通っています。

 朝陽まで複線で、長野ー朝陽間には区間ローカル列車が運転されていました。

 

村山橋(柳原〜村山

 

 朝陽を発車し、田んぼの中を走り、柳原に達します。柳原を出ると、右側から県道が近づいてきます。そして、県道と橋脚を共用した村山橋で、千曲川を渡ります。川中島で犀川と合流した千曲川の川幅は極めて広く、橋梁の長さは812mあり、長野県で最長の橋です。(千曲川と犀川が合流して、信濃川になると思っている人も多いようですが、合流しても、長野県内では千曲川です。)

 

村山橋梁を渡る1000系、長野行 柳原ー村山間 1957-8

 

須坂

 

 村山を発車すると、りんご畑の中を左にカーブして、須坂駅構内に進入します。屋代方面からは真っ直ぐ入りますので、河東線が歴史的には本線であることが分かります。須坂は長野を除いて、沿線最大の町です。長電の検車区、工場もここにあり、色々な電車がおりました。

 

2000系B編成特急湯田中行「かさだけ」 須坂 1959-3-14

 

  2000系、B編成(モハ2003+サハ2052+モハ2004)です。この編成は今月(2005年8月)引退するとのことです。

オリジナルの姿をご覧ください。

 

クハニ60型、クハニ61 須坂 1957-8                    モハニ210型、モハニ211 須坂  1957-8

 

 クハニ61は前にもお話しましたように、元信濃鉄道の木造車です。木造車まで、国鉄から譲受したのは、余程、車両が不足していたのでしょう。

 モハニ211は1933年汽車会社製で、長野電気鉄道創業時の1924年製のモハニ110型とほぼ同じ、やや古臭い感じがしました。

 

モハ600型、モハ601 須坂 1957-8                    モハニ510型、モハニ511 須坂  1957-8

 

 モハ600型は1927年、山の内線用に作った阪急600型とそっくりな川崎造船所製全鋼車で、40パーミルの急勾配区間を運転する為、抑速ブレーキを備えておりました。

 モハニ510型はモハ600型とカップルになる為、モハニ110型の制御方式を改造したものです。

 

モハ400型、モハ402+モハ403 須坂 1957-8                    モハ420型、モハ421 須坂  1957-8

 

 戦後、大私鉄が新車を割り当てられた見返りとして、中小私鉄に車両の供出をさせられたようですが、長野電鉄には東武鉄道から3両が譲渡され、モハ401〜403になりました。モハ401は制御方式の変更などで 、モハ421になりました。制御方式が異なったためか?長電では冷遇され、専ら、須坂ー屋代間で使用され、本線系統には殆ど入りませんでした。元信濃鉄道の木造車が、長野ー須坂ー信州中野ー木島間に運転されていたのを考えると余程、嫌われていたのでしょう!

 

小布施

 

 須坂を発車しますと、一面のりんご畑の中に真っ直ぐ延びた線路を快走し、酸性の水の為か川原がさび色になった松川を渡ると栗で有名な小布施です。

 

ED5000型、ED5002牽引の貨物列車 小布施 1959-3-14

 

 小布施駅の1番線にはED5002が牽引している貨物列車が退避していました。40年前には長電にもこのような立派な貨物列車があったんですねぇ!木島ー須坂ー屋代間の運転であったと思います。

 

小布施駅に進入する2000形特急湯田中行 1962-10

 
桜沢付近

 

 小布施を出ても、しばらくはりんご園の中を走ります。運転上の交換駅ではないかと思われますが、付近にはあまり人家もない桜沢に達します。ここから、延徳(えんとく)に向かって、山際を走りますが、西側は一面の水田になり、視界が開け、飯綱山から北信五岳を見渡すことが出来ます。このあたりは、延徳田圃と称し、昔は柳行李の原料の柳の産地であったようですが、この時は一面の水田でした。

 

モハ101+クハ二61 桜沢ー延徳間 1957-8

 

 モハ101+クハニ61のクラシックな電車が走って来ました。大きなパンタグラフが目立ちます。長野ー信州中野もしくは

長野ー木島間の普通列車ではないかと思います。

 

1000系 桜沢ー延徳間 1957-8

 

1000系 桜沢ー延徳間 1957-8

 

 1000系3連が走って来ました。湯田中行、普通列車と思います。長野ー湯田中間は主に1000系で運転されていたように思います。

 

信州中野

 

延徳の次は信州中野です。沿線第2の町で、木島方面と山の内線湯田中方面の分岐駅です。

 

モハ1+クハ51 木島行 信州中野 1957-8 

 

 信州中野駅の木島4番線ホームには木島行ローカルのモハ1+クハ51の木造編成が客を待っていました。この編成もまもなく、鋼体化改造されました。

 

山ノ内線

 

  信州中野から山の内線に入ります。直線で木島に向かう河東線から、大きく右にカーブして、登ります。

 

モハ1003+モハ1004+クハ1052 急行 湯田中行 信濃竹原 1957-8 

 

 2000系の特急以外に1000系による急行が長野ー湯田中間に一往復運転されていました。(1958年10月時刻表)

山の内線唯一の交換駅、信濃竹原を通過しようとしている急行、湯田中行です。運転士の横でタブレットを車掌が持っているのが見えます。

 カーブを描きながら40パーミルの坂を上ります。高井富士といわれる高社山が向かえてくれます。やがて、それを背にして夜間瀬に達します。しかし、沿線は畑、りんご園、ホップ畑で、山岳路線のイメージはありません。

40パーミルを登るモハ601+モハニ511 湯田中行 信濃竹原-夜間瀬間 1957-8 

 

 この急勾配区間用に作られたモハ600型が登ってきます。

 

高社山を背に40パーミルを登る2000系湯田中行特急 信濃竹原-夜間瀬間 1957-8 

 

 新しい2000系特急も50km/hほどでゆっくり登ってきます。

湯田中

 

 七曲りの40パーミルを登りきり、終着湯田中駅に到着しました。

 

1000系3連湯田中到着 湯田中 1959-3-15

 

 さすがに志賀高原の玄関口です。湯田中駅には3月でも雪が残っていました。15分ほど前に発った信州中野にはありませんでしたが!

 湯田中駅の直前まで、急勾配が続いており、電車が進入する線路でホームに接しているフラットの部分は2両分しかありません。この駅の終端側には志賀高原に行く道があり、ホームの終端より100m程、複線の線路があり、ホームの端に接して踏み切りがあります。3両編成の電車はこの踏み切りを越えて 進み、一旦停止します。そして、ポイントを切り替え、上の写真左側のフラットな留置線に続く、線路にバックで進入し、3両分のホームに停車し、乗客を降ろします。珍しい駅構内のスイッチバックで、これは今でも変わりません。

 

2000系特急と1000系普通電車 湯田中 1959-3-15

 

 湯田中駅の終端側から見た2000系と1000系です。この写真の手前に志賀高原に行く道路の踏切があり、それからさらに100mほど線路が延びています。

 

貨車の連結作業1 湯田中 1997-8                        貨車の連結作業2 湯田中 1997-8    

 

 山の内線には貨物列車は設定されていませんでしたが、貨車の扱いはしていました。上左の写真は、右側の線路に留置している貨車を1000系2連が迎えに行くところです。トム1両を牽引して戻り、更に、左側の出発ホームに推進で入るところです。

 上の写真の左側の側線に客車が留置されているのがご覧になれると思います。上野までの夜行直通列車の2両の客車です。この列車は後年、気動車、それを引き継ぎ電車で運転された昼行準急の直通列車が屋代から長電に入っていたのとは異なり、長野から入っていたようです。又、これを長電内で牽引していたのはED5000であったのか?

もしくは、1000系などの電車であったのか、分かりません。

 

40年前の長野電鉄を尋ねました。1000系のタイフォンの音が聞こえてきます。それまでの電車がホイスルであったので、新鮮な響きがありました。飯綱や北信五岳に囲まれ、りんごの花の咲く中、端正な鉄柱が並んだ長野電鉄線を

行く1000系3連が今でも目に浮かびます。

 

 参考文献

  鉄道ピクトリアル第12巻、第8号、通巻134号 私鉄車両めぐり「長野電鉄」
 謝辞  

  金沢の友人Yさんより、長野駅構内の写真を提供頂きましたので、挿入致しました。 ご提供感謝いたします。 (2007-5-23)            

(2005-8-25)

(2006-5-17追加更新)
(2007-5-23追加更新)

(2011-2-16カラー画像修正)
(2016-11-9)タイトル、画像拡大更新


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