父祖の地で、菩提寺も信州中野の山際にあり、戦前から、毎年、訪れておりました。渋温泉の大湯前の「ひしや」が定宿で、夏は、子供のころ、祖母と長逗留をしておりました。2000形特急電車が走り始めた昭和32年頃は志賀高原の開発も進み、特急に接続して、湯田中駅を出発した6,7台のバスが隊列をくみ、未だ未舗装の道路を砂煙を上げて、志賀高原に登って行きました。電車は2000形特急車も含めてすべてレッド・マルーンでした。この時代の長野電鉄が懐かしく、思い出されます。しかし、カラーフィルムは高価で、残っているのはモノクロ写真が殆どです。モノクロ写真をカラー化するフリーアプリソフトColorizationは幸い、茶系は良く変換されますので、これを使いカラー化した画像で構成した懐かしの長野電鉄を作ってみました。
渋温泉和合橋付近を行く志賀高原行長野電鉄バス
長野電鉄長野駅は駅前広場の北側にありましたが、島式ホーム1面、2両分しかなく、3両編成の先頭の車に乗る場合は、国鉄貨物ホームに行く踏切の先のホームまで、行かねばなりませんでした。地下化するまで、何か仮駅のような雰囲気でした。
長野電鉄長野駅構内 米さん撮影 1964年頃
2両分のホームは ドーム状の屋根で覆われ、その終端部に小さな駅舎があり、駅前広場に面しておりました。「志賀高原・山の内温泉郷」「長野電鉄のりば」の看板が見えます。国鉄長野駅の寺社建築の本屋の屋根もみえます。
1500形3連が発車しようとしています。2000形特急が発車を待っています。 長野~須坂~信州中野~湯田中行と長野~須坂~信州中野~木島行の普通電車が交互に運転されていました。その間に朝陽行のローカルが入っていました。権堂発、朝陽行というローカルもありました。
左端の線路はホーム手前で、土止めで覆われていますが、国鉄との連絡線であったのではないかと思います。
長野市の繁華街の権堂(ごんどう)駅は2面ホームにドーム状の屋根がある立派なもので、長野電気鉄道が長野のターミナル駅として考えていたことが窺えます。 善光寺の鎮座する城山の麓の善光寺下まで25パーミルの坂を登ります。ここまでが長野の市街地で、建物も線路に近く、撮影もしていませんでした。この区間は現在、地下化しています。
次の本郷からは住宅地となり、ぐっとのどかになります。
2000系3連、特急「しらね」長野行 桐原ー本郷間 1959-3-14
2000形は1957年に登場した転換クロスシートを備えた特急用電車で、名鉄5000形と似ていますが、下部の丸みが無く、レッドマルーンに細い白帯という装いとともに、よりシックな電車になりました。派手なツートンカラー全盛の時代に何故、このような色にしたのか?これは創業者で社長であった神津藤平の意向が大きかったように思われます。電鉄創業者として、阪急及び、小林一三に大きく影響されたように考えられます。事実、阪急600形と同じ、600形を入れております。D編成が昭和39年にりんご色で登場してから。すべての2000形はりんご色になり、
すべての電車がレッドとクリーム色のツートンカラーになりました。この頃には、神津藤平はこの世にはおりませんでした。
当初、愛称を記したトレーンマークを付けていました。座席指定であったと思います。 モハ2001+サハ2051+モハ2002、A編成
昭和33年10月の時刻表によると「しらね」「よこて」「しが」「かさだけ」「いわすげ」の5往復と不定期の「まるいけ」1往復が長野~湯田中間に2000形特急として設定されていました。下りの「まるいけ」は長野5:19発で信越線夜行列車の客の便を図っていました。権堂、須坂、信州中野停車で表定速度は51km/hですが、須坂~信州中野間の平坦部では100km/hちかく出していたようにも覚えております。 早朝出庫6;45須坂発長野行の特急5256レがありました。その特急券 です。
この列車は座席指定が有りませんでしたが、座席指定の記入欄がありましたので、他の特急列車では座席指定があったようです。
100形+200形 長野行 朝陽~信濃吉田 1959-3-14
信濃吉田を過ぎると信越本線をオーバークロスします。並行して用水もオーバークロスします。木島発長野行上り普通電車と思われます。モハ200型は1933年に汽車会社で製造された電車で、 一段下降窓、車長16.5mのやや古臭い電車でした。後部はモハ100型と考えられますが、これは1924年長野電気鉄道開通の時の電車で、200型もそれをほぼ踏襲していますので、古臭い感じがしたのでしょう! 写真の左下には国鉄信越線の線路が通っています。朝陽まで複線で、長野ー朝陽間には区間ローカル列車が運転されていました。
村山橋を渡る1000形3連上り普通長野行 1959-8
朝陽の次の柳原を出ると千曲川を村山橋で渡ります。長さ約1kmの長野県一の長大橋です。県道との併用橋です。最近、架け替えられ、雰囲気が変わりました。
ED5000型、ED5002牽引の貨物列車 須坂 1959-3-14
須坂は長野電鉄線の要衝です。下り方向を見て、左側には車両基地があり、多くの電車がおりますが、その反対側の橋上駅になる前の旧木造本屋の前のホームにはたくさんの貨車をED5002が牽いている長大貨物列車が停まっておりました。
須坂を発車しますと、一面のりんご畑の中に真っすぐ延びた線路を快走し、酸性の水のためか?河原がさび色のなった松川を渡ると栗で知られた小布施です。
小布施駅通過する2000形特急湯田中行 1962-10
当初、小布施に特急は停まりませんでした。これはオリジナル色2000形をカラーフィルムで撮った唯一の画像です。変換した画像の色は数年前に復刻したA編成の色に近いようで少し黒が勝っているように思いますが、この画像の赤みがかった色の方がオリジナルのレッド・マルーンに思えます。
都住、桜沢を過ぎると、延徳まで、延徳田圃と言われている水田が広がります。
モハ101+クハ二61 桜沢ー延徳間 1957-10
長野電鉄創業時のモハ100形が元信濃鉄道の木造車クハニ61を牽いています。当時、湯田中行普通は1000形3連で運行されることが多く、この列車は長野~木島間の普通電車と思われます。
延徳の次は信州中野です。須坂に次ぐ沿線第2の町で、木島方面と山の内線湯田中方面の分岐駅です。
モハ1+クハ51 木島行 信州中野 1957-8
信州中野駅の木島線4番線ホームには木島行ローカルのモハ1+クハ51の木造車編成が客を待っていました。長野電鉄には創業時の木造車では無く、車両不足のため、国鉄から旧信濃鉄道の木造車を譲受したものです。この編成もまもなく、鋼体化改造されました。
信州中野を発車すると、木島行は河東線本線であることを忍ばせるような真っすぐに延びた線路を走ります。湯田中行は右に大きくカーブした山の内線に入ります。
モハ1003+モハ1004+クハ1052 急行 湯田中行 信濃竹原 1957-8
2000形の特急以外に1000形による急行が長野ー湯田中間に一往復運転されていました。(1958年10月時刻表)
山の内線唯一の交換駅、信濃竹原を通過しようとしている急行、湯田中行です。運転士の横でタブレットを車掌が持っているのが見えます。
カーブを描きながら40パーミルの坂を上ります。高井富士といわれる高社山が向かえてくれます。やがて、それを背にして夜間瀬に達します。しかし、沿線は畑、りんご園、ホップ畑で、山岳路線のイメージはありません。
40パーミルを登るモハ601+モハニ511 湯田中行 信濃竹原-夜間瀬間 1957-10
この急勾配区間用に作られたモハ600形が登ってきます。モハ600型は1927年、山の内線用に作った阪急600形とそっくりな川崎造船所製全鋼車で、40パーミルの急勾配区間を運転する為、抑速ブレーキを備えておりました。 モハニ510型はモハ600型とカップルになる為、モハニ110型の制御方式を改造したものです。しかし、モハ601はパンタを下げており、クハとして使われておりました。長野まで直通運転をするようになり、急勾配用の600形はギャー比が大きく、鈍足であったためかも知れません。
高社山を背に40パーミルを登る2000形湯田中行特急 信濃竹原-夜間瀬間 1957-8
新しい2000系特急も50km/hほどでゆっくり登ってきます。
七曲りの40パーミルを登りきり、終着湯田中駅に到着しました。
1000形3連湯田中到着 湯田中 1959-3-15
さすがに志賀高原の玄関口です。湯田中駅には3月でも雪が残っていました。15分ほど前に発った信州中野にはありませんでしたが!
湯田中駅の直前まで、急勾配が続いており、電車が進入する線路でホームに接しているフラットの部分は2両分しかありません。この駅の終端側には志賀高原に行く道があり、ホームの終端より100m程、複線の線路があり、ホームの端に接して踏み切りがあります。3両編成の電車はこの踏み切りを越えて 進み、一旦停止します。そして、ポイントを切り替え、上の写真左側のフラットな留置線に続く、線路にバックで進入し、3両分のホームに停車し、乗客を降ろします。珍しい駅構内のスイッチバックで、2006年9月に1線化する改修工事完了までありました。
2000形特急と1000形普通電車 湯田中 1959-3-15
2000形特急「まるいけ」は信越線夜行の客を乗せ、5時59分に湯田中に到着。9時45分発、上り「まるいけ」として出発するまで、向かって左側の新駅側のホームを占拠します。この間、普通電車は右側の旧駅に面するホームから発車します。
湯田中駅の終端側から見た2000形と1000形です。この写真の手前に志賀高原に行く道路の踏切があり、それからさらに100mほど線路が延びています。安代、渋まで、伸延する計画があり、実現はしませんでしたが、電留線として使われていました。
湯田中駅電留線の1000形3連 1957-8
1000形、1500形は戦後の私鉄向けの運輸省規格型で、昭和23年から29年にかけて総勢14両が作られ、主力電車でした。1500形は昭和26年ころから作られた山の内線に乗り入れるため、抑速ブレーキ付とのことですが、1957年(昭和32年)頃には1000形も長野~湯田中間に運行されており、抑速ブレーキを付けていたものと思われます。3連が多かったようです。マルーン時代は前面に行先表示板を付けておらず、横サボだけでした。これが、引き締まった表情になり、タイフォンの響きとともに強く印象に残っております。
山の内線には貨物列車は設定されていませんでしたが、貨車の扱いはしていました。上左の写真は、右側の線路に留置している貨車を1000系2連が迎えに行くところです。トム1両を牽引して戻り、更に、左側の出発ホームに推進で入るところです。上の写真の電車の横に小さな貨物ホームが見えます。
電車には貨車にブレーキを掛ける直通ブレーキは有りませんので、山の内線内では貨車は必ず、湯田中側に連結しておりました。ワムを連結したときは運転士が前方を見ることが出来ませんので、車掌が身を乗り出して、前方監視をしておりました。
貨車の連結作業1 湯田中 1957-8
貨車の連結作業2 湯田中 1957-8
上の写真の左側の側線に客車が留置されているのがご覧になれると思います。上野までの夜行直通列車の2両の客車です。この列車は、昭和34年までは長野から入っていたようですが、昭和35年からは屋代から長電に入るようになったようです。しかし、昭和37年3月に屋代経由で、キハ57が長電に乗り入れ湯田中まで直通するようになり、この影響か?長野経由に戻ったことがあるようです。長電内で牽引していたのはED5000であったと思われます。客車との直通ブレーキ、抑速ブレーキも備えておりました。
以上、2000形特急が走り始めた昭和30年前半のマルーンの長野電鉄でした。
(2021-8-7)