(1964年)

 で、4月2 8日朝、島原鉄道に乗り、撮ってから長崎に来ました。長崎は雨でしたが、駅前には長崎電軌の電車が頻繁に走っていました。グリーンとクリームのツートンカラーの電車は長崎の街によく似合いました。

 国鉄長崎本線にほぼ平行して長崎駅前を通り、長崎一の繁華街、思案橋までの路線を本線として、総延長約11km、ゲージ1435mmの軌道線で、下の電車案内図のように5系統の運行をしておりました。昭和39年(1964年) 当時から、廃止された路線が無く、逆に、思案橋から正覚寺下まで延長しており、広島電鉄とともに、現在でも、盛業の路面電車です。

 

 

 

                                               乗り換え券乗車券 宮さん所蔵電車運行案内図(車内掲示)  宮さん撮影   1964-4-28


長崎駅前

 早速、長崎駅前で、行き交う電車にご挨拶です。

 

1系統、赤迫行、370形、374と1系統、思案橋150形、155 長崎駅前 宮さん撮影 1964-4-28

                                                  

 この当時の最新形370形と元箱根登山鉄道小田原市内線(軌道線)の150形が居ました。

 

3系統、赤迫行、160形、163長崎駅前(赤迫寄り)   1964-4-28

 

 ダブルルーフの木造車も走っておりました。160形で元西鉄福岡市内線の木造ボギー車です。この当時、13両在籍しており、主力電車のひとつとして走っておりました。

 

築町方面と小川町方面の分岐 長崎駅前 1964-4-28

 

 長崎本線に平行して赤迫から長崎駅前に達した1系統の電車は直進し、大波止、築町、西浜町経由、思案橋まで行きます。3系統はここで、左折し、小川町、公会堂前から蛍茶屋まで、行きました。

蛍茶屋

 3系統の電車に乗り、終点、蛍茶屋まで行きました。

 

5系統石橋行301と3系統赤迫行163 蛍茶屋電停 1964-4-28

 

  蛍茶屋終点の停留所は長崎から鳥栖に向かう国道34号線(長崎街道)が東側の山に突き当たったようなところにあります。5系統はここから西浜町を経て、大浦天主堂下の石橋まで行っています。

 

蛍茶屋車庫         1964-4-28


 

 停留所の奥にはこじんまりとした車庫がありました。電車がひしめいておりました。

 

4系統、蛍茶屋行212  蛍茶屋付近  1964-4-28

 

 4系統の電車が蛍茶屋終点に向っています。4系統は思案橋から西浜町経由蛍茶屋まででした。

 

5系統、蛍茶屋行301  蛍茶屋付近  1964-4-28

 

4系統、蛍茶屋行305  蛍茶屋付近  1964-4-28

 

 蛍茶屋は2,3、4、5系統の終点で、ひっきりなしに電車が登ってきます。しかし、2系統(赤迫ー長崎駅前ー築町ー西浜町ー蛍茶屋)は殆ど見かけず、運転本数は少なかったのではないかと思いました。

 小川町

 

3系統赤迫行168     小川町   1964-4-28

 

3系統蛍茶屋行309     小川町   1964-4-28

 

  3系統は長崎駅前から左折して、小川町経由、掘割で、国道34号線の下をくぐり、公会堂前に達しています。小川町は現在、桜町と改称しているようです。

 

西町車庫前

 

 長崎駅前より赤迫方面の電車は佐世保に行く国道206号線(浦上街道)上を走り、浜口町で左に入り、国鉄長崎本線の横の専用軌道を走ります。

 

3系統赤迫行207 浜口町ー松山町 1964-4-28         急行「出島」広島行402Dレ 浦上ー道ノ尾 1964-4-28

 

 浜口町を出た3系統赤迫行207の横を気動車急行「出島」が追い抜いて行きました。単線、非電化の長崎本線は複線、1435mmゲージの長崎電軌に対し、貧弱な感じです。でも、大きなトレーンマークを右横に掲げたキハ58系の急行「出島」も貫禄がありました。

 

1系統赤迫行374 西町車庫前      1964-4-28 

 

 やがて、右に折れ、長崎本線と離れ、西町車庫前に着きます。西町車庫は大きく、長崎電軌のメインの車庫です。西町車庫は訪れた2年後には浦上車庫と改称されているようです。

 

2系統蛍茶屋行208    西町車庫前      1964-4-28 

 

 車庫を左に見て、赤迫行は西町車庫前電停を過ぎると、専用軌道は終わり、再び、国道206号線上の併用軌道に戻ります。
当時、2系統は西町車庫前−西浜町−蛍茶屋で、始発と最終だけは、西町車庫前止まりではなく、赤迫まで延長運転していました。今、2系統は深夜に1本だけで、事実上廃止されています。その西町車庫前の待機場所から、208は出発しようとしています。右側に少し写っているのが、西町車庫前の電停です。待機場所と言いつつ本線の途中にありました。待機場所に電車がいるときは、通過する電車の方が待避線を通っていました。左側に曲がるポイント、先の方に左側から合流するポイントが写っていますが、その線路です。待避線に入るポイントのカーブが急で、凄い衝撃があったのを覚えています。今は、この待避線はありません。(地元ご出身HY様より、貴重な当時の様子をご連絡頂きました。)

 

電車の顔ぶれ

車庫に憩う古豪160形、186と最新型370形、372 西町車庫前      1964-4-28 

 

 車庫には木造ボギー車160形とこの当時の最新型370形が顔を揃えておりました。この当時の電車を紹介致しましょう。

先ず、その頃、現役で走っていた電車です。

 

150形、155 蛍茶屋 1964-4-28 

 

150形は元箱根登山鉄道小田原市内線(軌道線)のモハ20形で、同線廃止の1956年(昭和31年)に5両全部譲受したものですが、木造ボギー車を鋼板張り、前面3窓化、車長短縮などを行い、全く、原車と異なる容貌になったようです。151のみ動態保存されているようです。

 

160形、168 蛍茶屋 1964-4-28              170形、173 西町車庫前 宮さん撮影 1964-4-28 

 

160形は西鉄北九州線の前身九州電気軌道が開通に備えて1911年(明治44年)に作った木造ボギー車1形です。 170形はその増彌として1912年(大正元年)から作られた木造ボギー車35形です。窓配置とベンチレータなどが違うようです。福岡市内線に単車(2軸車)の淘汰の為、1950年(1925年)から移籍しましたが、1959年(昭和34年)に13両 が長崎電軌に譲渡されたものです。長崎電軌も戦前からの電車は単車ばかりで、それも、原爆投下の戦災で損害を大きく受けていましたので、木造ボギー車を応急処置として受け入れたのでしょう。168はクラシック電車として、今も現役で、各種イベントの際、走っているようです。 96歳の最長寿の電車です。160、170形電車は川崎造船所製で、質が良かったのでしょうか?訪問当時、既に、車齢は50年を越えているにも関わらず、西鉄福岡市内線とともに、 ここでも、主力電車として、たくさん、走っていました。長崎では1970年(昭和45年)頃まで、第一線で活躍を続けたようです。

 

201形、203 蛍茶屋 1964-4-28              202形、206 蛍茶屋 1964-4-28 

 

 200形(201形、202形)は1950年(昭和25年)に作られた自社発注車で、長崎電軌の初めての半鋼製ボギー車です。

201形(奇数ナンバー)は日立製、202形(偶数ナンバー)は日車製で、西鉄500形を模して作られたとのことですが、201形はノーシル・ノーヘッダーです。各5両あります。

 

211形、212 蛍茶屋 1964-4-28              300形、307 蛍茶屋 1964-4-28 


 

 211形は1951年(昭和26年)に6両、日立で作られた201形とほぼ同じ車です。

 300形は1953年(昭和28年)に10両、日立で作られたものですが、前照灯が窓下中央になり、西鉄500形そっくりになりました。

 

360形、365 西町車庫 1964-4-28              370形、373 西町車庫前 1964-4-28 

 

  360形は1961年(昭和36年)に7両、370形は1962年(昭和37年)に7両、日車で作られた全金属製、ノーシル・ノーヘッダー張上げ屋根で、前面は西鉄1000形連接車に似た中央窓の大きい3枚窓です。両形式は形式を作った年に合わせただけで、ほぼ同じようです。

 以上、ナンバー順に紹介しましたが、昭和25〜28年にかけて、200形、211形、300形を作っていますが、その後は昭和31年に150形、昭和34年に160形、170形と他社から古い電車を譲り受けています。昭和36、37年に久しぶりに360形、370形と新車を入れましたが、この後、1966年(昭和41年)に500形、5両製作した後、1980年(昭和55年)の2000形まで新製されず、他社からの譲渡車を受け入れています。現在、広島電鉄と並んで、私鉄路面電車のチャンピオンのように言われていますが、経営的には結構、苦労したあとが窺われます。

 

 訪問した1964年(昭和39年)当時は、営業は100%ボギー車で運転されていましたが、それまで、活躍していた単車が未だ運転出来る状態で車庫に留置してありました。既に、予備的な存在で、この後、まもなく、廃車されたようです。

 

40形、43 西町車庫 宮さん撮影1964-4-28              40形、45 西町車庫 1964-4-28 

 

 40形は1921年(大正10年)に自社工場で製作した木造単車で、43は戦後、車体更新されています。45は原爆被災車で、車体は新製されたようです


 

120形、122 蛍茶屋車庫 1964-4-28              130形、131 西町車庫 宮さん撮影1964-4-28 

 

 120形は元大阪市電の木造単車、130形は元阪急北野線の木造単車で、122、131共、戦後、車体更新されました。

 

運搬車 101 西町車庫 宮さん撮影1964-4-28 

 

 西町車庫の奥に運搬車101がいました。 長崎電軌の創業時、1915年(大正4年)に製作された1形、1号(木造単車)の車体を利用して作られた運搬車です。長崎電軌には記念すべきものですが、現存はしていないようです。

 

以上、一寸長くなりましたが、40年前の長崎電軌を見て頂きました。

 

 参考ウェッブサイト

  ウェッブサイト「長崎の路面電車 歴代全形式データベース」を参考にさせて頂きました。 お蔭様で、垣間見た電車の歴史を知ること出来ました。

  謝意を表したいと思います。

謝意
 地元ご出身のHY様より、誤りのご指摘と貴重な当時の様子をご連絡頂きました。深謝致します。ご連絡頂いたことを記載し、更新致しました。(2014-3-6)

  

(2014-3-6)改訂
  (2007-3-28)
(2022-5-4)40形説明変更


 

 


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