1962年(昭和37年)7月15日、信越本線の高崎ー横川間の電化が完成しましたが、1年後の碓氷峠粘着新線完成、軽井沢ー長野間電化までは仮電気運転のおもむきでした。旅客列車は電気機関車牽引になりましたが、気動車 特急、急行はアブト線経由で続けて運転されました。しかし、電車での優等列車の運転をどうしてもしたかったようで、上野ー横川間電車運転、横川ー軽井沢間バス連絡といういささか、無理をした感じの80系湘南電車 を使った準急「軽井沢」が2往復運転されました。
初日、7月15日の準急「軽井沢1号」2305Mレは全面3枚窓の初期製造の80系での運転でした。編成は
(上野) クハ86012+モハ80046+サハ87028+モハ80023+モハ80005+クハ86003 (横川)
の6両編成でした。「祝電化 高崎ー横川」の祝賀トレーンマークを付けて、上野駅13番線より8時01分に発車しました。祝賀列車のようですが、発車のセレモニーはなにもありませんでした。
「軽井沢1号」の行き先表示板には「上野ー横川⁐⁐(バス)⁐⁐軽井沢」とあります。
高崎駅1番線に到着、ここで発車セレモニーが行われました。9時37分発車です。
次の停車駅磯部で、上り長野発上野行普通列車322レが待っていました。なんと、EF53+D51重連の牽引でした。
次の松井田駅はスイッチバック駅を廃止し、高崎方向に移設し、碓氷川橋梁の東南側に新駅を作りました。この移動は大変もめて、着工時期も大幅に遅れたようで、ホームは枕木で作られた仮のものでした。
旧松井田駅に入るスイッチバックを通過します。旧駅ではまだ、貨物扱いは行っていたようで、架線は張られて居ませんが、蒸機運転の貨物列車は入っていました。写真の真中に見える信号扱所も機能しておりました。
横川駅3番線に10時09分到着です。上野から2時間8分の運転で気動車急行とあまり変わりません。1番線にはキハ57の気動車急行「とがくし」302Dレが入っていました。
これから、軽井沢に行くため、連絡バスに乗り換えです。国道18号線側にバス乗り場を設け、ホーム端と横川機関区の間に踏切を仮設しました。群馬バスが運行し、軽井沢到着は11時5分となっており、約50分を予定しておりました。この時代はバイパスもなく、カーブが続く、旧道で 碓氷峠を越えたのでしょう。
電車は1番線に転線し、上り準急「軽井沢1号」2306Mレとなります。横川10時20分発、上野到着12時45分です。
(この列車に接続する連絡バスの軽井沢発は9時15分発)
夕方に「軽井沢2号」1往復が運転されていました。
下り2309Mレ 上野15時07分発ー横川17時23分着(軽井沢18時30分着)
上り2310Mレ (軽井沢16時40分発)横川17時52分発ー上野20時03分着
でした。
気動車で運転されていた 高崎ー横川間ローカル列車は電車化されました。山手線のクモハ40072、京浜東北線のクモハ40059が転籍してきたとのことです。写真の電車は横川駅10時44分発高崎行126Hレ、2連ですが、単行で運転されることも多かったようです。クロスシートの気動車からロングシートになり、地元の評判は良くなかったようです。
下り特急「白鳥」大阪行2003Dレが3番線に入ってきました。10時43分にED42に押されて、アブト線を登って行きました。
こののち、1963年(昭和38年)7月15日から準急「軽井沢」は全面的に使われる前に単線で粘着新線を通り、軽井沢まで運行され、長野までも延長運転されました。
1963年(昭和38年)10月1日に粘着新線が本格運用され、信越線急行が165系で電車化される前の短い間でしたが、電車運転のさきがけになった列車でした。
参考文献
鉄道ピクトリアル1962年9月号、通巻136号 糸井重道「信越線・ 高崎ー横川電化現地ルポ」
日本交通公社発行「時刻表」1962年10月号
(2009-4-8)
(2011-3-21)一部訂正
(2011-6-21)一部訂正
(2016-11-5)タイトル更新
このほか、以下の信越本線関係のページがあります。