1960年(昭和35年)10月に当時父の在勤地であった富山から東京に行く途中、上越線廻りとして、長岡で、栃尾電鉄に会うため、途中下車をしました。丁度、長岡鉄道、中越自動車と合併し、越後交通栃尾線になったときでした。
モハ209 長岡 1960-10-25
先ず、目に飛び込んできたのが、異形のモハ209でした。当時の電気機関車のようなデッキが前後に張り出しており、前面の真中に屋根に達する梯子がありました。
モハ209の前面 長岡 1960-10-25
左側はデッキに出る扉になっていました。
モハ209(パンタ側) 長岡 1960-10-25
パンタ側も同じ、形相でした。より精悍に見えました。
1952年(昭和27年)に自社工場で作ったもので、カルダン駆動75HPx2、釣り掛け式42kWx2のモータを装備していたとのことです。カルダン駆動というのは、床下に取り付けたモータからガソリンカーの駆動シャフトで動力を台車に伝えたものです。
いずれにしても強力なので、客車を最大7両牽引したとのことです。豪雪地帯ですので、冬は除雪の活躍したようです。架線やパンタの着雪を取り除く為に屋根にも登る必要もあるので、デッキや梯子も役に立ったのでしょう。
長岡駅構内1 1960-10-25
訪れた時は時間がなく、ほとんど、長岡駅構内で撮ったようです。左のホームから国鉄駅への連絡通路があったと思います。
この写真は栃尾方面を望んだものと思われます。
長岡駅構内2 1960-10-25
2面はホームがあり、かなりの部分に屋根がありました。冬に備えてのことでしょう!
これは悠久山側を望んだものと思われます。
長岡駅構内2 1960-10-25
訪れた1960年には電車が2両ぐらいの付随客車を牽く、多くの軽便鉄道と同じ列車組成でした。
モハ203 長岡 1960-10-25
1958年にDC600VからDC750Vに昇圧しました。そのときの電車は草軽電鉄からモハ105を譲受したモハ200とガソリンカー改造のモハ201〜203でした。 ガソリンカーから改造した電車は当初、エンジンの代りに電動機を床下に装荷し、プロペラシャフトで駆動した直角カルダンでしたが、吊り掛けに改造されました。
モハ207 長岡 1960-10-25
モハ207は1950年(昭和25年)に草軽電鉄モハ104を購入したものですが、1959年(昭和34年)に東洋工機で、車体新製、間節制御化、垂直カルダン駆動にしたものです。
モハ208 長岡 1960-10-25
モハ208は草軽モハ103でモハ104と同時に栃尾に来ました。草軽時代のスタイルを良く残していますが、1955年(昭和30年)に栃尾で初めての神鋼電気製の垂直カルダンドライブになったとのことです。
モハ211 長岡 1960-10-25
モハ211は客車をネタにして、1957年に自社工場で新製した、間接制御で、総括制御を目的にした初めての車で した。
モハ213 長岡 1960-10-25
モハ214 長岡 1960-10-25
モハ213、214は訪れた1960年(昭和35年)、東洋工機製の新車でした。総括制御車で、モハ214はマルーン塗装でした。
直接制御車の運転台 間接制御車の運転台
栃尾線の運転台はコントローラが右、ブレーキ弁が左と通常の電車と逆になっているのが特徴でした。
ホハ1 長岡 1960-10-25 ホハ17 長岡 1960-10-25
ホハ1は1914年(大正3年)栃尾鉄道開業時に作った木造ボギー客車でした。ホハ17は草軽から譲り受けた木造ボギー客車で小型でした。
ホハ1形 悠久山 1960-10-25 ホハ24 長岡 1960-10-25
創業時に製作されたホハ1形は6両残っていました。もう休車扱いのものも多かったようでした。ホハ24は元ガソリンカーキハ110で、モハ204として、電車化されましたが、電装解除され客車になっていました。
ED51 長岡 1960-10-25
電気機関車も在籍していました。ED51は1949年に日立製の762mmゲージとしては珍しい箱型電機でした。42kWx4のモータを搭載し、貨物列車を牽引していました。
以上、限られた時間で、見た越後鉄道栃尾線でした。
訪問時とほぼ同じ、1960年12月発行の鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり「越後交通栃尾線」の「将来」の項には
762mmゲージの軽便鉄道といえば赤字に悩み廃止される鉄道が各地でにあって話題になっているが
栃尾電鉄には今のところそのような心配はない。(中略)
ちかく、悠久山〜上見付間にCTCを実施することになっており、それに伴ってスピードアップと輸送力増強が期待
されている。まず、現行の40分間隔を20分位にし、折り返しを増加する模様である。
とバラ色の将来が書かれていました。
電車の総括制御化のため、モハ213,214のような新車も入り、栃尾線の将来は明るいと思われていましたが、やはり、軽便鉄道として例外ではなく、バスとの競争に敗れ、1975年(昭和50年)4月1日に完全に姿を消してしまいました。
尚、ここに掲載の画像の多くはプリントからのもので、やや鮮明さに欠けるものがありますがご容赦願います。
参考文献
鉄道ピクトリアル1960年12月号臨時増刊 号外、私鉄車両めぐり第1分冊 越後交通栃尾線
鉄道ピクトリアル1969年12月号臨時増刊 通巻232号、私鉄車両めぐり第10分冊 越後交通栃尾線
ウィキペディア「越後交通栃尾線」
(2009-9-11)
(2016-11-7)タイトル更新
(2019-1-20)更新
軽便鉄道シリーズ
狭軌の国鉄より更に1フィート狭い2フィート6インチ(762mm)ゲージの軽便鉄道が全国各地にありました。ほとんどがバスとの競争に敗れ、昭和30年代から40年代はじめに姿を消しました。本ページ以外に下記の軽便鉄道の最後の姿をご覧頂けます。(下のアイコンをクリックして頂くとご覧頂けます。)
(610mmゲージ)