東海道本線,保土ヶ谷-戸塚
1963年(昭和38年)
1963年(昭和38年)3月、春のお彼岸も近い日に東海道本線保土ヶ谷ー戸塚間の清水谷戸(シミズヤト)トンネルの上り(保土ヶ谷側)入口付近で、行きかう列車を撮りました。保土ヶ谷、戸塚の両方から10パーミルの勾配を登り、このトンネルの保土ヶ谷 寄り出口がサミットになっております。長さ214mの短いトンネルですが、古くは武蔵と相模のくにざかい、横浜の保土ヶ谷区と戸塚区の区境とのことです。保土ヶ谷側は掘割 りで、北側は緩い草地の斜面になっており、鉄道ファンの撮影名所でした。
1年半後の新幹線開通をひかえ、「こだま」「つばめ」などの電車特急、「なにわ」などの電車急行が行き交い、東海道本線は最後の華やぎを見せていました。
下り特急「第2こだま」大阪行5Mレがトンネルに向います。
ビジネス特急「こだま」として、1958年(昭和33年)12月にデビューした国鉄最初の特急電車151系は当初8両編成、半室ビュッフェのみで食堂車も無い簡素なものでしたが、1960年(昭和35年)6月に客車特急「つばめ」などの電車化に伴い、1等展望車(パーラーカー)クロ151、食堂車サシ151を含む、12両 の豪華編成となりました。
この写真の「第2こだま」の先頭車はパーラーカーで、扉から運転台寄りは4人定員の個室、扉から後ろは両側1列、7席の背ずりの高いリクライニング・シートのオープンサロンで大きな窓を持つ豪華車両でした。
「第1、第2こだま」、「第1、第2富士」、「第1、第2つばめ」、「はと」と東京ー大阪間の7往復の電車特急が走っていました。これらも1964年(昭和39年)10月の新幹線開通までの 先の短いものでした。共通編成でしたので、列車の名前も一つにすればと、今になっては思いますが、歴史ある特急名を残したかったのでしょう。
上り特急「第1つばめ」東京行4Mレがトンネルから出てきました。
横須賀線電車70系が来ました。70系電車はスカ形電車とも言われていたように、ブルーとクリームのツートンカラーと共に横須賀線と言えばこの電車のイメージが浮かんできます。 前年、昭和37年から新しい111系が入り、横須賀線にも走ることになりましたので、70系の姿が見られるのも後、わずかであったとおもいます。
EF58に牽引された下り急行「高千穂」日豊本線経由西鹿児島行35レが来ました。機関車の次位に帯を巻いた一等車を特別に連結しており、機関車を含め堂々たる16両編成でした。一等寝台(マロネ29)、二等寝台2両、食堂車も連結されておりました。 既に、夜行寝台特急(ブルートレーン)も運転されており、東京発14:35、西鹿児島、翌日19:46着とほぼ30時間かかりましたが、まだ、利用客も多かったのでしょう?
153系の東海道線普通電車です。何か、運転台窓の低い153系は普通電車に充てられ、高窓は急行で走っていたように感じていました。
山手線、総武線などに使われていた101系が来ました。なにかの臨時電車かと思います。
上り急行「六甲」東京行102Mレと思います。
153系電車による東京ー大阪間の急行はこれ以外に「いこま」「第1、第2なにわ」「第1、第2せっつ」「よど」があり、7往復走っていました。12両編成で、ビュッフェもありました。この他に同一編成で運転されていた、東京ー広島間「第1、第2宮島」 も運転されていました。
このころの東海道線は電車特急、電車急行の花盛りでした。
下り姫路行普通列車143レがEF58に牽かれて登ってきました。数少ない客車の普通列車でした。EF58に牽かれた手荷物専用列車とすれ違います。
関西から転属したクモハ43を先頭とした横須賀線電車がやってきました。
157系電車の準急「湘南日光」日光発、伊東行2501レです。157系は準急「日光」用に作られた電車で、東武特急に対抗するため、準急用ですが、151系とほぼ同じ、特急なみの電車でした。
特急「第2つばめ」大阪行7Mレがトンネルに吸い込まれて行きました。
撮り始めたのは既に午後2時を廻っていました。 「第2つばめ」がトンネルに消えた時はほぼ5時になっていました。
モノクロだけですが、新幹線開業を2年後に控え、長距離優等列車が行き交った東海道本線の姿をすこし、ご覧頂けたと思います。
謝辞
本ページは友人のTM、TN、MT、MM各氏のご協力により作成致しました。謝意を表したいと思います。
参考文献
鉄道ピクトリアル1960年5月号、通巻106号 特急電車「つばめ」と「こだま」
日本交通公社発行「時刻表」1963年5月号
(2009-1-30)