中央本線(中央西線)から取り残された陶磁器の街と最寄りの国鉄駅を結んだ2つの路線、土岐津〜東駄知間の駄知鉄道と新 多治見〜笠原間の笠原鉄道が1944年戦時統合により合併し、東濃鉄道となり、それぞれ、駄知線、笠原線となったものでした。駄知線は1974年(昭和49年)に、笠原線は1978年(昭和53年)に廃止になりました。

 1965年1月の成人の日の連休に豊橋鉄道田口線、北恵那鉄道などと共に、中部地方の小私鉄を訪れた時の姿をご覧頂きます。

地元ご出身の「ごはちまる」様のご指摘を頂き、駄知線の画像の撮影場所を訂正するとともに構成を大きく変えました。(2015-7-13)

 

駄知線

 

中央本線、土岐津駅より、東駄知まで、10.4km、ゲージ1,067mm、1950年(昭和25年)に電化され、架線電圧はDC1500Vでした。

 

 

 先ず、終点の東駄知駅まで行き、ここですこし撮りました。そして、車庫のある駄知駅に行き、ほぼ全部の顔ぶれをキャッチすることが出来ました。

 運転されていた電車は電化時の1950年(昭和25年)に自社発注したモハ100形モハ101、102、旧南武鉄道のモハ100形を国鉄より譲受したクハ200形、クハ201、202、そして、クハ203であった車を電動車化したモハ103でした。

 

モハ101+モハ103 東駄知  1965−1−16

 

 モハ100形、モハ101、102は東芝車両製、東急3500形に似たマスクで、何処か、東京近郊の電車を譲り受けたような車でしたが、自社発注車でした。 長さ14.3mの半鋼製中型ボギ―車です。東芝はモータや制御器は作っていましたが、電車自体を作ることはほとんどなく、珍しい存在でした。 モハ101はED1001と衝突し、その修理を日車で行った為、少し、姿が変わりました。前面の運転台以外の窓はアルミサッシュ化したのか?細くなりました。また、反対側は貫通扉が付いていました。

 

モハ101+モハ103 東駄知  1965−1−16

 上と同じシーンのモノクロ写真です。やや、雰囲気が変わっているような感じですので、あえて載せました。

 

モハ101+モハ103(手前) 東駄知  1965−1−16

 

 この時、モハ101と組んでいたモハ103は元南武鉄道100形で、貫通扉付になり、ウインドシルも広くして、原型から変わっていました。 

モハ102+クハ201 東駄知  1965−1−16

 

 モハ102の方が100形のオリジナルなスタイルのようです。クハ201と組んでいました。

 

モハ102+クハ201 東駄知 1965−1−16


 
東駄知駅     1965-1-16

 

 東駄知駅は木造の古いものでした。1923年(大正12年)開通時のものかもしれません。
駄知駅は車庫もあり、この線の中枢のようでした。駄知町では東駄知駅を東駅、駄知駅を西駅と呼んでおり、これは地名としていまも使われているとのことです


クハ201+モハ102(手前)  駄知  1965-1-16

 駄知駅に到着したクハ201+モハ102編成です


クハ201(手前)+モハ102  駄知 1965−1−16

 クハ201は元南武鉄道100形の原型に近いようです。この車は1926年(大正15年)汽車会社製で、長さ14.7mの半鋼製ボギー車で、モハ102に比べ、時代を感じさせます。


クハ202  駄知 1965−1−16

クハ202は車庫で休んでいました。

ED1001牽引貨物列車  下石   1965−1−16

 

 ED1001は1950年(昭和25年)の電化時に東芝車両製の凸形電気機関車です。陶器やその原材料の輸送が多く、貨物列車も4往復設定されていました。
 下石駅のある下石(おろし)は1955年の合併前は駄知とは別の町で、駄知はどんぶり、下石は徳利の産地で、双方とも貨物の取り扱いが多くありました

 

笠原線

 

中央本線多治見駅に隣接した新多治見から笠原まで、4.9km、ゲージ1,067mm、非電化の路線でした。

 

 

 

 終点、笠原には車庫もありこの線の中心でしたが、広い構内には小さな気動車が1台停まっているのどかな風景が広がっていました。

 

笠原駅構内                 1965−1−16

 

笠原駅ホーム                 1965−1−16

 

笠原駅                 1965−1−16

 

笠原駅舎も木造ですが、これも1928年(昭和3年)に笠原鉄道が開通した時とすれば、駄知駅よりやや近代的??であるのかもしれません。

 

           キハ23                新多治見  1965−1−16

 

 両端に荷物台を設けた典型的なガソリンカースタイルのキハ23が1両で、往復しておりました。笠原線はより貨物輸送の比重が高いようでした。

 

キハ23         新多治見  1965−1−16

 

キハ23         新多治見  1965−1−16

 

 キハ23 は1933年(昭和8年)に駄知鉄道が作った日本車両製の半鋼製ボギー気動車です。長さ11.9mの小型車で、両端に荷物台がありました。駄知線の電化と共に、笠原線に来ました。キハ23を両端から眺めて頂きましょう。

 

キハ500         笠原  1965−1−16

 

 もう1台の気動車キハ500は車庫で休んでいました。

国鉄に買収された播但鉄道のレカ15を国鉄より譲り受けたものです。1931年(昭和6年)梅鉢車両製の半鋼製ボギー気動車で、長さ13.3mとキハ23よりやや大きいですが、ウインドシルのあたりにリベットがあり、より古いスタイルに見えました。

 

キハ1のホディ         笠原  1965−1−16

 

 笠原鉄道開業時のキハ1のボディーが構内の一角にありました。

 

DD105         笠原  1965−1−16

 

 DD105は元大井川鉄道井川線の凸形液体式ディーゼル機関車DD105をDD106と共に1964年(昭和39年)に譲り受けたもので、営業廃止の1978年(昭和53年)まで活躍したようです。 廃線後の資材撤去作業にも使われたようです。 この写真では大きく見えますが、井川線の車両限界に合わせて、キャブなどは低くなっていたようです。

 旅客輸送はバスに譲り、1971年(昭和46年)に止めましたが、耐火煉瓦の発送とその材料の到着で、貨物輸送は1978年(昭和53年)まで、存続しました。最盛期は7往復の貨物列車が運転されていました。

 

 国鉄幹線から外れた町と最寄り駅を結ぶ典型的な路線でしたが、陶磁器やその原料をを運ぶ貨物輸送の需要が大きく、訪問時は繁栄していたように見受けられました。しかし、ローカル私鉄の例外とはならず、姿を消してしまいました。
 
 (謝辞)地元ご出身の「M.・O」様のご指摘により、笠原線キハ23の撮影場所を訂正致しました。ご指摘有難うございます。
      地元ご出身の「ごはちまる」様のご指摘を頂き、駄知線の画像の撮影場所を訂正するとともに、構成を大きく変えました。深謝致します。
      西宮後様より駄知線ED1001牽引貨物列車の画像は下石駅と同定頂きましたので、関連記述とともに追記致しました。有難うございます。

 

  参考文献

  鉄道ピクトリアル1962年3月増刊 通巻128号 私鉄車両めぐり<第2分冊>東濃鉄道 

 

(2011-1-15)
(2014-1-8)更新
(2015-7-13)更新

(2019−1−10)更新
(2022ー4−3)DD105記述追加


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