1960年(昭和35年)5月22日(日)に父が妹と昇仙峡見物に連れて行ってくれました。未だ、学生の頃でした。昇仙峡を馬車に乗って見物したスナップ写真が並ぶフィルムの末に 、なにやら電車の姿がありました。改めて、スキャンしてみますと、山梨交通電車線でした。小生だけ残り、少しばかり、乗って、撮ったようでした。

 甲府駅前〜甲斐青柳間22.2km、架線電圧、DC600V、1067mmゲージの軌道線で、甲府駅前〜荒川橋間2kmは併用軌道でした。国鉄身延線と若干離れたルートで、鰍沢町の甲斐青柳まで走っていました。1930年(昭和5年)からすこしづつ路線を延ばし、1932年(昭和7年)に全通したようです。 軌道線と言わず、電車線と称していたようです。しかし、戦後の一時期を除き、営業成績は芳しくなく、1962年(昭和37年)7月には廃止になってしまいました。

 

 

 時間のない時の鉄道ファンの常としては、車庫のある駅迄乗り、そのルートで撮るというもので、この時もそのような行動のようでした。この線の車庫は貢川(くがわ)でした。専用軌道に入ってから最初の交換可能駅、上石田で、一つ目の奇妙な車が甲府に向ってい るのを目にしました。これは、開通に備えて作った1929年(昭和4年)に雨宮製作所で製作した木造単車の電動貨車1でした。

 

 

 この電動貨車の続行運転としてモハ3甲府行が上りホームに入っていました。モハ1形(モハ1〜6)は開業に備えて、1929年(昭和4年)に雨宮製作所で作った車長約13mの半鋼製小型ボギー車でした。 40パーミルの急勾配があるので、50HP(37kW)のモータを4台装備していました。見かけより、強力な電車でした。 総括制御可能で自連付。前照灯は昼間取りはずし式で尾灯は1つのみでした。

 

 

貢川の小さな車庫の脇をモハ5が甲斐青柳に向かって発車して行きます。この電車に乗ってここまで来たようです。

 

 

 貢川の上りホームにはモハ4とモハ8が留置されていました。

 

 

 モハ7形(モハ7、8)は1948年(昭和23年)汽車会社東京製の半鋼製ボギー車でした。モハ1形と窓配置などは同じですが車長13.8mとやや長くなり、側窓も2段上昇になっており、戦後の私鉄の標準スタイルになっておりました。 自連付、総括制御可能。前照灯は同じく昼間とりはずし式ですが、尾灯は2つ持っておりました。この車 は廃止後、上田丸子電鉄を経て、江ノ電800形となり、モハ7,8が連結して活躍しました。 50HP(37kW)モータを4台持っていましたが、江ノ電では、そんなにパワーは必要ないので、2台のモータを切って使用していましたが、後に、高架化などで、急勾配が生じ、4個モータに戻したとのことです。モハ7は里帰りして、沿線の利根川公園に保存されているとのことです。

 

 

 モハ4(モハ1形)を改めて見ますと、一段下降窓で、ウィンドシル、ヘッダーにはリベットが並んでいます。救助網もあり、垂直の排障器のモハ8(モハ7形)に比べ、昭和初期の車という感じがしました。塗色は オレンジ色に塗り替えつつあったようでしたが、その前は金太郎の腹掛け塗り分けの帯を締めたツートンカラーであったようです。窓廻り、イエロー、その他はブルーでスカ色(横須賀線モハ70系の色)に近いように覚えておりますが、確かではありません。

 

 

 帰りはモハ7に乗ったようです。上石田で、モハ3甲斐青柳行と列車交換しました。モハ3はオレンジに塗り替えられておりました。 甲府行のモハ3ではついていなかった前照灯が装着されて、折り返してきました。

 

 

甲府駅前駅に到着しました。電動貨車1が居りました。称号もナンバーもありませんが車籍はあるようでした。

 

 訪れてから2年後に全線廃止になってしまいました。早くに姿を消したので、ウェッブ上にも、営業時の電車の姿が少ないように思われます。わずかなものですが、ご覧頂くことにしました。

 


 

 

 山梨県には私鉄は二つしかありませんでした。その一つの山梨交通電車線はまもなく姿を消すことになりましたが、もうひとつの富士急行は最初の狭軌WN駆動高性能車3100形が就役しており、盛業でした。往きに大月駅で見かけた3100形、3103です。

 

参考文献&ウェッブサイト

  鉄道ピクトリアル 1961年12月号 通巻125号 私鉄車両めぐり[47] 山梨交通電車線

  フリー百科事典ヴィキペディア「山梨交通電車線」 

(2012-6-10)
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