40年前の富山地方鉄道(富山地鉄)はその子会社の加越能鉄道、立山開発鉄道を含め、160kmを越える鉄道・軌道路線を富山県一円に広げておりました。これは、東京、大阪の大私鉄にもひけを取らない営業規模であり、地方の私鉄ではトップクラスであったと思います。創業者の一県一市街地化というユニークな思想により、富山県内の鉄道を積極的に買収し、戦時統合の追い風も受けて、昭和18年にこのような大地方鉄道が出来たようです。

 小学5年から高校卒業迄、富山に住んでいましたので、地鉄(地元住民は通常このように言っていました。)にはお世話になりましたが、電車の写真を撮ろうと思ったのは、大学で鉄道研究会に入ってからでした。そして、家族全てが富山を去った1963年(昭和38年)まで、夏休みなど折を見て、帰った時、少しずつ撮りました。住んでいたのが笹津線沿線であり、全ての路線を撮ることは出来ませんでしたが、改めて、見ると懐かしくなりました。系統だった写真ではありませんが、40年前の地鉄をご覧頂こうと思います。

 

 

 

  富山地鉄に余りおなじみでない方も多いと思いますので、40年前の路線を少しご紹介しましょう。

 

        地鉄本線 電鉄富山ー 寺田ー上市ー魚津ー電鉄桜井       37.3km

        黒部線  黒部-電鉄桜井-宇奈月                  17km* 

                立山線  (電鉄富山)-稲荷町ー上滝ー岩峅寺ー千寿ケ原    29.1km

                五百石線 寺田ー五百石ー岩峅寺                   7.4km

 

   以上が 架線電圧1500V、軌間1,067mm、単線の高速電鉄線で、黒部ー電鉄桜井間を除き、現存しています。しかし、現在は、立山(この当時、千寿ケ原)には本線、五百石線経由で運転され、 稲荷町ー南富山ー上滝ー岩峅寺間は上滝線と称し、完全なローカル線化しています。

 

         富山市内軌道線    富山駅前ー西町ー南富山駅前       9.5km

                     西町ー新富山ー大学前

                     環状線

         笹津線         南富山ー地鉄笹津                    12.4km

         射水(いみず)線   新富山ー新湊                       22.2km 

         高岡軌道線      

         伏木・新湊線      新高岡ー伏木、新湊                   8.5km* 

                           (昭和34年4月1日、加越能鉄道に譲渡)

                                            (営業キロ*は概略)

 

 架線電圧600V、軌間1,067mm、富山軌道、高岡軌道線の一部以外単線の軌道線です。射水線、笹津線は地方鉄道法による鉄道ですが、高床ではあるが路面電車仕様の電車で運転され、笹津線は富山駅前迄、射水線は西町迄、富山 市内軌道線に乗り入れていました。更に、射水線は新湊から加越能鉄道、新湊線に乗り入れ、高岡まで行っていました。富山の繁華街西町から県の第2の都市、高岡を結んでいましたが、遠回りで、1時間10分も掛かりましたので、直通する客はいなかったと思います。

 これらは、富山市内軌道線と第3セクター万葉線として生き残った高岡ー新湊 ー越の潟以外は現存していません。富山軌道線も上の図では主な線以外記載していませんが、環状線は廃止されました。

 

                加越能鉄道 加越線   石動ー福野ー庄川町        19.5km

 

 非電化、軌間1,067mm、単線の路線ですが、これももうありません。

 当時、地鉄は立山の観光ルートのケーブル、バスを開通させ、富山ー滑川間の新線、更に、富山ー金沢間の 高速電鉄線の建設を計画していたようです。富山地鉄にとって、良き時代であったようです。

 

 以下に、[その1]として地鉄本線・黒部線、立山線、ページを改めて[その2]富山軌道線、笹津線の写真をご覧に入れましょう。

 

 地鉄本線・黒部線 

 

クハ120形、クハ123 黒部線内山駅 昭38-9

 

モハ14780形、モハ14783 電鉄富山駅進入 昭38-9

 

 本線には、前身の富山電鉄時代の電車も生き残っていました。クハ123は昭和6年日車製の電動車がクハ化されたもので、東急など、東京の近郊電車に顔が似ていますね。

 モハ14783+クハ183は昭和33年新製のカルダン駆動高性能第三次車であり、当時の看板の車で、皇太子など皇族もご乗車されたとのこと。しかし、本線の急行に使用するのには輸送力不足だったようで、吊り掛け車モハ14750型を併結してい ることが多かったようです。 地鉄の形式は 電動車の場合、始めに電動機1台の出力(HP)がきますので、桁数は多くなり、新旧の順序なども分からず、ピンときません。一つの電動車としての出力なら意味があると思いますが、電動機の出力では余り役に立たないようにも思いますが!

 

    モハ7520形 モハ7523    上市 昭38-9                 モハ12510形 モハ12511  電鉄富山 昭38-9

 

 モハ7520形は昭和6年日車製、前身の富山電鉄創業時からの車です。昭和6年製としてはリベットも目立たずすっきりした姿です。モハ12510形は昭和12年川車製の元黒部鉄道の車です。勾配のある黒部線を走るため出力が大きくなっているようです。モハ7520形に比べ、よりスマートになっています。       

 

      クハ120形 クハ127 電鉄富山  昭38-9                 クハ90形 クハ92     電鉄富山  昭38-9

 

 クハ120形はモハ7520形の相棒で、モハが車長15mであるのに対し、17mとやや長い。富山電鉄の元電動車で車長12mの車であったようですが、クハ化され、体を長くする大手術を受けたようです。クハ90形は昭和37年に富士重工で作られた当時としては新しい車でした。国電72系のような切妻で無愛想な顔をしていますが両開きのドアを持っており、新しい車であることを主張しています。台車は近鉄名古屋線の改軌による出物のようです。

 

  モハ14750形 モハ14753   電鉄富山  昭33-12                 モハ14750形  貫通スタイル  昭38-9

 

 モハ14750形は昭和23年日車支店製、戦後の運輸省規格型とのことではありますが、長野電鉄1000、1500形とほぼ同じ均整のとれたスマートな電車です。マルーンとアイボリーのツートンカラーで、正面は流行の金太郎の腹掛けの塗り分けです。湘南電車80系の影響で、各地の私鉄で流行したが、古い電車にこの塗装を施すと田舎くさくなりましたが、この車は以外に似合っていました。ドア間クロスシートで、急行に主に使用されており、カルダン車と併結されることも多かったようです。昭和33年、34年に上市側に貫通扉取り付け 、アルミサッシ化などの更新が行なわれましたが、感じが大幅に変り、余り頂けません。地鉄の旧車はこれ以降、順次、近代化更新をされ、窓枠のアルミサッシ化などで、安っぽくなりました。ここでは、それ以前の姿をご覧いただけたようです。

なお、モハ14753の全面窓下の中央にある金具とその下側に2つある丸ハンドルは積雪時、スノープラウをつける為に取り付けられているものです。他の写真でお目にかけますが、雪の深い富山の電車に取り付けるスノープラウはスカートのようにこじんまりとしているものではありません。

 

モハ14770形 モハ14772 黒部線浦山駅 昭38-9             モハ14780形  電鉄富山    昭33-7

 

 モハ14771+クハ171は昭和30年、日車支店製の地鉄、高性能カルダン第一次車でです。東京の大手私鉄でも釣り掛け車を作りつづけていたこの時期にカルダン車を入れたとは立派なものです。全面、非貫通3枚窓でどこか、14750形の面影を引き継いだ感じがあります。第二次カルダン車、モハ14780形+180形(2編成有り、昭和32年、日車支店製)は 前面がはやりの2枚窓になりましたが今から見ると平凡なスタイルでした。これらはドア間クロスシートで、宇奈月行の急行、特急に使用されました。   

 

     モハ14720形 モハ14721 宇奈月温泉  昭38-9             モニ6570形 モニ6571  上市  昭33-7

 

 モハ14721+サハ221+モハ14722は高性能カルダン第四次車として、昭和36年日車支店で作られた当時の最新車です。初めて、3両の固定編成です。モハ14780と同じく、前照灯が3つになり、顔が引き締まった感じです。

この後、昭和37年にカルダン5次車、昭和39年に6次車が作られました。昭和30年代は地鉄の最盛期であったようです。

 モニ6570形は自社発注車がほとんどの当時の地鉄としては珍しい他社から購入した木造車を昭和24年に鋼体化改造されたものです。

 最後に一つ、地鉄以外の列車をご覧頂きましょう。

 

地鉄本線特急より見た北陸本線D50牽引貨物列車 昭38-9

 

 地鉄の特急電車は90km/h近い速度で快走している脇を、単線の北陸本線をD50102が牽引する貨物列車がゆっくりと走ってゆきました。この当時の富山平野の旅客輸送は完全に地鉄が握っていましたが、これはそれを象徴するものだと思います。北陸本線はC57牽引の旅客列車が2時間に1本程度、ゆっくり走っていましたが、これは地鉄の敵ではありません。地鉄の創業者の「国鉄は全国規模の輸送が目的、富山県内のローカル輸送は地鉄」という考えが正に的中したともいえました。しかし、国鉄北陸線の電化・複線化、JR移行はそれに大きな変化をもたらしました。ドル箱の本線を抱え、正に、地鉄のよき時代でした。

 

立山線

 

モハ7510形 7515    寺田  昭38-9

 

 立山線は電源開発を主目的に建設された富山県営鉄道が前身で、地鉄に統合されてから、立山開発の為、立山開発鉄道を作り、その手により、美女平ケーブルとの接続駅、千寿ケ原(現、立山)迄、延長され ました。このように、観光路線であるにも拘わらず、新車は投入されず、専ら、旧車で運転されていた。

 モハ7515は昭和23年に日本鉄道自動車というところで、クハとして作られ、翌年電装されモハになったもので、立山線に投入されました。1時本線で走っていた時があり、上の写真は寺田駅と思われます。

 

     モハ8060形 モハ8067  南富山  昭33-12               モハ10050形 10056  電鉄富山  昭和38-9

 

 モハ8067は昭和2年日立製の元県営鉄道の車です。一段下降窓で腰板が高く、地鉄で最も古臭い形でした。モハ10056も元県営鉄道の車で、 日車支店製です。スタイルから見ると、昭和10年頃作られたものと思います。

 

   モハ13140形 モハ13141形 南富山 昭33-12                クハ100形  クハ101形  南富山  昭34-3

 

 モハ13141は元黒部鉄道の大正16年に作られた木造車を昭和26年頃鋼体化改造したもののようです。立山線の電車の中では何か大きく見え、重厚な感じでした。クハ101は元越中鉄道(射水線の前身)の車で、昭和6年、日車製、同じ年代に作られた富山電鉄出身のクハ120形に比べ、何か田舎の電車風であ りました。

 

         クハ140形 クハ145 南富山 昭33-12             デキ19040形 デキ19041  南富山     昭33-12

 

 クハ145は昭和19年、新潟鉄工所製、工場の工員輸送用の客車として作られたものを昭和21年に購入、クハにしたという変った車です。切妻で、無愛想な表情をしています。

 デキ19041は有峰ダム建設のセメント輸送の為、小野田セメントが発注したもので、昭和32年に東洋電機/東洋工機で製作され、セメント輸送終了後、昭和35年に三岐鉄道に移籍し ました。僅か、3年間の活躍であったが、大きなスノープラウを付けて、除雪に活躍していました。

 

 このように、立山線には本線のような新車は入らず、立山の麓の千寿ヶ原までもこのような旧車で運転されていました。この当時から、立山急行は本線、五百石線経由で運転されていたように覚えています。これには本線の車が使われていました。現在の上滝線として、ローカル化する兆候が当時からありました。

 

 (お断り)本文中、西暦と年号が混在しています。最近の事柄は西暦で認識していますが、古いことは昭和で認識しています。無理に西暦に直しますと、何か感じが掴めなくなりますので、タイトル等は西暦と年号を併記しましたが、本文中は年号で記載しました。

 

参考文献

 鉄道ピクトリアル Vol.211、213、214 私鉄車両めぐり 富山地方鉄道

 

謝辞

 クハ123の写真は黒部線内山駅での撮影と地元にKさまよりご教示頂きましたので、追記しました。

 深謝します。(2008-10-22)

 モハ14772の写真は黒部線 浦山駅での撮影とTSさまよりご教示頂きましたので、追記しました。

 深謝します。(2009-9-6)

(2004-10-13)

(2008-10-22)更新

(2009-9-6)更新
(2016-9-27)タイトル更新
(2019-8-29)一部訂正


 


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