惜別の時
都電銀座線・山陽電軌長関線・八高線蒸機運転
昭和30年代後半から40年代にかけて、慣れ親しんできた多くの路線や車両が消えて行きました。
時代の趨勢で当然なのかもしれませんが、今から考えると、一寸、惜しかったというものもあるようです。
ここでは、その中で、東京都電銀座線、山陽電気軌道長関線と高鉄の八高線での蒸気機関車さよなら運転をご覧頂きましょう。
都電銀座線
銀座、中央通りの都電は昭和42年(1967年)12月9日に廃止になりました。馬車鉄道以来の伝統ある路線ですが、都電の廃止の流れを印象つけようというのか、他に先駆けての廃止でした。
さして、都電ファンというわけではありませんでしたが、最後を一目見ようと、会社が終わってから、出かけました。最後の夜の銀座の都電です。
1系統、品川ー上野は都電のシンボル的な存在で、PCC、5500形もいましたが、お目にかかれませんでした。上野から三田車庫への最終便に使われたようです。
銀座のシンボルの服部時計店をバックに4丁目交差点を渡ってきた1系統の6000形です。
4系統は五反田駅から新橋・銀座行でした。最後まで、小型の1000形、1100形で運転されていました。スタイルも張り上げ屋根でなく、1時代前のものでしたが、銀座の大通りを 通り、1丁目が終点でした。
22系統は南千住から浅草を経由、銀座・新橋行きで、新橋が終点でした。南から入る1系統、4系統とはなにか雰囲気が違っていました。
モールと「ながらくのご乗車ありがとう」の幕をつけた、これも北から入ってきた40系統です。
銀座4丁目交差点を渡る9系統(渋谷・青山ー水天宮・浜町)の青山・渋谷行6000形です。銀座、中央通りは通りませんが、日比谷からお堀に沿って走り、赤坂見付から青山通りを走る都電の幹線系統の一つでした。
Sonyビルの大電光表示も都電に惜別の辞を送っています。
銀座4丁目交差点には「都電よありがとう」の横断幕がありました。SAPPORO、Lionビアホールの前には、鉄道友の会のものもありました。
改装中の銀座三越にも惜別の辞がありました。
夜撮影したモノクロ写真で、お見苦しいとは思いましたが、これから既に36年経ちました。記憶の彼方になった方も多いとは思いますが、41系統あった都電が最近何故か思い出されますので、ご覧に入れた次第です。
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山陽電軌長関線
鉄道ファンというものは何か、個人的な思い出のある鉄道が好きになるようです。個人的な体験ですが、昭和19年、父の転勤で当時の満州に渡りました。下関まで、列車、そこから、関釜連絡線で釜山、急行「大陸」で朝鮮半島を行き、父の赴任地、安東(現在の丹東)に行 きました。このとき、下関で、路面電車をチラッと見ました。
この電車の記憶がどこかにあり、是非、じっくり見てみたいという願望があったようで、会社の出張で北九州に行った折に、山陽電軌を訪れました。その模様は、
で簡単にリポートしましたが、その際、唐戸から長府に達する長関線がまもなく廃止になることを聞き、なけなしの財布をはたいて、カラーフイルムを買い、やはり、出張の合い間に撮影しました。
下関駅前です。市内線も含めて、結構頻繁に電車が発車していました。
唐戸から市内線と分かれ、下関一の名所、赤間神宮前を走ります。
長府に向かって、風光明媚な海岸に沿って走ります。完全逆光で、色はよくないものもありますが、このような景色の良いところを走る路面電車も少ないのではと思い、敢えて、入れました。
長府駅前です。
長関線は昭和44年10月に終焉を迎えました。
スマートな電車と風光明媚な沿線、やはり、思い出に残る電車です。
八高線蒸機さよなら運転
昭和45年(1970年)に高崎鉄道管理局管内 で最後に蒸気機関車が廃止される八高線と足尾線で
「SL蒸気機関車さよなら運転」が実施されました。
八高線では9月27日、足尾線では10月4日に運転されました。
友人と6人で、八高線の「さよなら運転」を撮りに行きました。
D51とC58重連でオハ61でしょうか?客車6両を牽引して、神流川橋梁を渡るところです。高崎から高麗川に向かう列車です。イベント列車ではありますが、オハ12等ではないので、なにかしっくりしています。
高崎9:24発で高麗川11:54着、折り返し高麗川13:02発、高崎着16:51着で、もどりはC58が先頭になりました。
年末に当り、30年前にお別れした電車、蒸機に惜別の念を込めて、お送りしました。
例により、偶然、押し入れから出てきたフィルムによるもので、まとまりが無いことはご容赦願います。
(2003/12/18)