長野が父祖の地であり、父の転勤で小学校5年から高校まで、富山で過ごたため、信越線は数え切れないくらい利用しました。北陸から上京する時、夜行の上越線経由急行「北陸」か 、昼行の信越線経由急行「白山」を利用するかが昭和30年代前半までの選択肢でした。東京の大学に入ってからは、富山との往復は専ら「白山」に乗りました。鉄道の好きな学生が退屈な夜行に乗る筈はありません。

始発の金沢9:45、富山10:58に出発した「白山」はC57に牽引され快適に直江津まで北陸本線をとばします。直江津で方向を変えD51牽引になります。編成は基本9両、付属2両で通常2両は長野で増結されます。しかし、多客期の夏は始発 から11両編成で運転されました。この時はD51重連で牽引します。新井までは平野を快適に走りますが、新井からは妙高山の山麓を田口(現妙高高原)迄連続25パーミルの急坂を登ります。新井ー田口間21kmを「白山」は45分かけて登りました。満員の客を乗せている時は上りきれず、通過のスイッチバック駅、二本木、関山に 一旦入り、蒸気を蓄えて、急坂に再挑戦したこともしばしばでした。このため、いち早く、ナハ11等の軽量客車化されました。田口ー柏原(現黒姫)間がサミットでここから、善光寺平に向かって駆け下ります。長野で直江津区のD51はお役目を終え、長野区のD51に引き継ぎます。 ランニングボードに白線の入った長野区のD51が軽井沢まで、引き上げ、碓氷峠をED42、横川から高一区のD50、高崎から高ニのEF58あたりに牽かれ、上野20:00着。富山から9時間2分の長旅でした。時間はかかりましたが、変化に富んでおり、今から考えると本当に旅を楽しめる列車だったかもしれません。

しかし、近代化の波が押し寄せ、昭和38年(1963年)7月15日、上野ー長野間の電化が完成しました。

 

  

 

この時は、碓氷峠はまだアブトでしたが、ともかく、長野から東ではドラフトの音を聞くことが出来なくなりました。長野ー直江津間の電化も3年後に迫っており、D51の奮闘を見ておきたいと思い、田口ー柏原間のサミット付近に行きました。ここは、妙高山と黒姫山の山麓で、長野からの列車は善光寺平のつきる豊野から連続25パーミルの急勾配を登り、ここから、田口、新井に向かい駆け下ります。直江津からの列車は先にお話したように新井から急坂をやっと登りきるところです。

 

    D51重連牽引の下り金沢行急行「白山」           (1963-7)

先頭のD51は初期型「なめくじ」?

 

    D51重連牽引の上り上野急行「白山」           (1963-7)

 

    妙高山の下を行く 直江津行き下り普通列車    (1963-7)

サミットを過ぎ、田口に向かって下る。

      

   妙高山の下を行く D51重連    (1963-7)

柏原に向かって登る

 

  25パーミルを妙高山麓に向かって登る補機付貨物列車      (1961-3)

         豊野ー牟礼間

 

   25パーミルを妙高山麓に向かって登る直江津行普通列車   (1961-3)

      豊野ー牟礼間

 

     北信の山々を背に善光寺平を長野に急ぐ普通列車      (1961-3)

豊野ー吉田(現北長野)間

 

  信越線を快走する長野行飯山線準急「野沢」キハ55系     (1961-3)

    豊野ー吉田(現北長野)間

 

   豊野から信越線に乗り入れている飯山線キハ07        (1961-3)

         吉田(現北長野)

 

 信越本線の高崎ー直江津間では、急勾配が多く、D50、D51が専ら奮闘しました。松井田ー横川、御代田から信濃追分に登る急勾配が有名でしたが、新井から田口、柏原への25パーミルが20kmにわたって続く区間が最もD51のドラフトが高かったと思います。この区間にはついに行けず、その代わりに田口ー柏原間のサミット付近とそのサミットに向かって長野側から登り始める豊野ー牟礼間で撮ったものです。長い間お世話になり愛着も一入であった急行「白山」のD51重連牽引の雄姿を留めて置きたかったのです。

 昭和41年(1966年)10月1日には長野ー直江津間も電化完成し、D51のドラフトも聞けなくなりました。

 

  

 

更に長野新幹線の開通により、信越本線も分断され、昔の面影がなくなりました。

40年前のD51の頑張っている姿を見て、そのドラフトが何処かから聞こえてくれば幸いです。

(2004-6-2)
(2016-11-5)タイトル更新


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